教理をすべて信じていないのにやめなかった理由

教理をすべて信じていないのにやめなかった理由

エホバの証人の時は、教理をすべて信じてはいなかったです。本当にハルマゲドンは来るのか、楽園は来るのか、死者は復活するのか、人間は完全な存在として生きていけるのかなど、半信半疑でした。それでも、エホバの証人をやめようとは思いませんでした。

私のような信者は必ずいますし、もしかしたら多くの信者は同じように考えていたかもしれません。

しかし、外側からやめさせようとしても無理です。それは、その宗教をしていたほうが、本人にとって都合がいいからです。

私もエホバの証人の組織に属していた時は利益がありました。都合がいいものがありました。

自分の居場所作りのため
宗教教理により子どもを性被害から守れるため
家庭内が波立たないため
自分自身のアイデンティティを保つため
死者の復活や平和な世界を望んでいたため

他にもいろいろとあったと思います。

ですから、家族や周りの友人などが宗教をやめさせようとしても無理です。よくうつ病の人や病気の人に、食事法や医師を紹介したりとアドバイスされる方がいますが、当人はそんなことは望んではいません。それと宗教の問題も同じです。本人がその状態を不快に思ったり、都合が悪いと感じない限り、宗教をやめることは難しいです。

しかし、信者は確実にはすべてを信じてはいないので、その要素が大きくなった時に変化は訪れるのだと思います。私も実際に、体を汚す血は避けるのに、薬や抗がん剤や社会毒はどうして避けないよう指導しないのかと考えた時に、なにかしら不信感を持ち始めました。宗教をやっている時は、あまり考えてはいませんでした。教えの通りに生きていればそれが神から喜ばれると、ただ、教理だけを受け入れていました。本当に何も考えていなかったのです。

宗教をやめさせたいと思った時、周りの人にできることは何もないのかもしれませんが、信者はすべてを信じているわけではないということや、都合がいいからその場にいることや、やめるきっかけがないとやめれないなど、そういう状態だと認識していたら、何か変化は訪れるのかもしれません。そして、あなた自身も実はその状態が都合がいいと自覚したら、宗教をやっていてくれたほうが都合がいいと認識できたら、その時は、あなた自身も選択するものが変わってくるのだと思います。

人生を豊かにするために

人生を豊かにするために

人生は、マラソンランナーなど運動選手に例えることができます。運動選手として歩んでいく上でいろいろな出来事は起きます。躓いたり転んだり、挫折など経験することも時にはあるでしょう。そして、進んでいく先には、いろいろな成果や結果が出てきます。そして、その結果に対して、運動選手は誰のせいにもしない。様々な外的要因があったとしても、その時に対処できなかった自分にすべて責任があると思うのです。

私も、人生の中で様々な出来事がありました。そして、その出来事のたびに、思うような結果が得られなかった時は、周りが悪いと思っていました。こんな環境が悪いと。だからうつ病になったんだと。自分がすべて選んできた道だというのに。問題は自分の内側から派生しているのに。本当に愚かでした。

被害者意識の成れの果てでした。常に被害者意識が根底にあったのです。弱い自分を守るために。自分が壊れないために、誰かを悪者にしていました。

被害者意識を捨ててから、うつ病は治っていきました。向精神薬も断薬できました。そして、周りの要因、原因ではなく、自己の問題に向き合う勇気が出ました。問題の根源はそこにあります。

自己の生き方、考え方、幼少期やトラウマによる闇や、コミュニケーション能力など、様々な事柄に向き合い、自分自身の人生の歩みに、責任が持てるようになりました。

まだまだ私の人生の道は続くと思いますし、続いて欲しいとも思っています。今後も、いろいろな出来事が起きるでしょう。その都度、運動選手のように「自分のどこに問題があったのか」「こうしたら改善されるのか」「この方法が自分にはあっているのでは」など、自己に問うて人生を進んでいきたいと思います。そういう姿を、遅いかもしれませんが、子どもに見せていけたらと思います。そうしたらこの国も、住んでいる国民も、豊かになると思っています。一人ひとりがいろいろな事柄にあれこれと考え、責任を持って生きていることになるので。

周囲を気にかけてしまう性被害者

周囲を気にかけてしまう性被害者

「性暴力被害は、子供の心に深いトラウマを残す。『心配をかけたくない』という子供なりの優しさや気遣いから、大丈夫そうに振る舞っていても、本人は苦しみ続けているケースは多い。」引用元 読売新聞 教員からわいせつ行為、命絶った女子生徒の母「慕う気持ち利用…許せぬ」

被害者の立場なのに、自分が悪いと罪悪感も持ってしまう性被害者の方もいます。私もそうでしたし、この記事の女子生徒さんも、私と同じ感覚だったと思います。

人はつらい出来事が起きて、それが100%被害者の立場でも、人を完全に恨むことはできない。だからその葛藤で苦しむのだと思います。他者を悪にするよりも自分自身を悪にしてしまいます。

そして、子どもが一番に考えていることは、親のことです。親が平和で平穏であるよう願っています。それが崩れるくらいなら、自己犠牲を払ってでも親を守り続けます。

ですから、子どもの表面的な言葉や行動だけではなく、裏に隠れている感情に気づける大人が増えて欲しい。そうしたら、必然と性被害、性暴力は減ってきます。気にかけてもらえている存在、大切にされている存在だと認識できるだけで、それだけで、子どもは自分を傷つけることはしなくなるからです。そうすることで、この国の子どもたちを大事にしていることになり、それは、国を存続させることにもなります。

エホバの証人とがん患者

エホバの証人とがん患者

エホバの証人の組織にいた時は、病気の方は多かったように思えます。うつ病をはじめ、精神の不安定さ、発達障害、自律神経失調症、皮膚病、婦人科系疾患、難病、そして、がん。

女性特有の病気である、乳がんは何人かいましたので、身近な会衆で目立つのなら、全体ではもっと沢山いたと思います。

では、どうして乳がんが多いのかと考えた時に、聖書の教理が関係してくると思います。

私が学んだエホバの証人が用いる「新世界訳聖書」では、性に関する教えは厳しかったように思えます。(他の聖書や宗派とは比べたことがないので、同じなのか独自の解釈なのかはわかりません。)

そして、その性の教えが厳しかったので、私はこの宗教を求めてしまったと思います。このエホバの証人の組織に居ることは、どこかで安心感を持っていました。誰も性的なことで傷つける人はいないと安心していました。

性に関する教えはどのように厳しかったのか。例えば、結婚関係以外の不義の性関係である淫行は、聖書では禁じられ、将来訪れる「楽園」に入ることはできませんでした。その将来の命が関わるゆえに、多くの信者は「性は悪」ととらえたのかもしれません。私もそういう感覚は持っていました。

「ある人がユダにこう告げた。「あなたの息子の妻タマルは娼婦のようなことをして,しかも妊娠しています」。ユダは言った。「彼女を連れ出して,焼いてしまいなさい」(創 38:24)」
「神は,皆さんが聖なる者となり、性的不道徳を避けることを望んでいます。(テサロニケ第一 4:3)」
「淫行から逃げ去りなさい。…淫行を習わしにする人は自分の体に対して罪をおかしているのです(―コリント第一 6:18)」

そうすると何が起きるかというと、自分自身に出てくる、性に対する欲求を「悪」としてしまうのです。私の考えとしては、幼少から聖書を学んでいる宗教二世三世の若者は、性的な欲求を「悪」としているのだと思います。ですから性に関する「がん」ができてしまうのだと推察できます。そのがんには必ず隠れている精神性があるからです。奥に隠れている、隠しておきたい感情が隠れています。

宗教は教えが絶対なので、どうしても自分自身が「悪」になってしまいます。素直な子どもなら尚更です。純粋に教えを受け取ってしまいます。

ですから、宗教は時として人を支配もできますし、人格形成もされてしまい、本当の自分が「何者」なのかわからなくなるのではないでしょうか。悪い言葉を使えば、ロボット生産のようなものです。聖書の教えをインプットされて、すべて同じ人のように見えていました。同じ言葉を使い、同じ表情を出し、すべての信者が仮面の姿でした。

そして、がん患者は何かを必ず封じて生きています。何かを溜め込んでいます。それが塊になってがんという形になっているのだと思います。

がんは、環境や食からくる社会毒が原因の一つでもありますが、精神も必ず関係していることを知って欲しいです。そして、宗教の教理がとても影響しているということも、もし、このブログに辿り着いた宗教二世三世の子どもたちに伝わればと思います。