死に向き合った一休さんのことば

死に向き合った一休さんのことば

みなさんがよく知っておられる一休さんこと、「一休宗純」
一休宗純/Wikipedia

一人の信者から、家宝にしたいから「めでたい」ことばを書いてほしいと頼まれ、このように書いたそうです。

「親死 子死 孫死」

「死」ということばが並んでいたため、信者はかんかんに怒りました。しかし、一休宗純は、「孫死 子死 親死」のほうがめでたいのかと返答されました。

人の視点というのはそれぞれ違っていて、見る角度、とらえる角度が変わると、結果や答えも変化します。

現代では、「親死 子死 孫死」というように、老いた人から順番どおりに亡くなっていくことは難しい時代となりました。また、昔も小さな子どもたちのほうが病気にかかりやすく、亡くなる確率も高かったでしょう。若者の死がないということは喜ばしいことであり、上の世代から順番に亡くなっていくことは自然で、人として死を受け入れやすいことだと思います。ですから、「親死 子死 孫死」というのはめでたいことだというのが、一休宗純の教えです。

死について向き合い、語っておられ、人が嫌うことばをあえて伝えるというのは勇気がいることかもしれません。

それでも、忌み嫌われるようなことばでも、人々に考えてもらえることばを伝える人間になれたらいいなと思いました。そして、死についてあまり語られない現代ですが、人には必ず「死」は訪れます。生があれば死もある。死は誰もが経験することです。

だからこそ、本当は話し合ったり、話題にしたりと、考える機会があったほうがいいように思います。そして、そういう事柄を、子どもたちと話し合う時間が持てる社会になればと思います。

私も50歳を過ぎ、死について、自分なりの答えを見つけていきたいと思います。

宗教で騙されカモられる理由

宗教で騙されカモられる理由

金銭トラブルなどがあり、裁判による判決や教祖が逮捕されたとしても、形を変えて信者はセミナーなどを開催して、同じように霊感商法を続けている宗教組織は存在しています。

宗教組織からいえば、お金になるから存在し続けるわけですが、では、被害者の立場から考えると、なぜ、今も被害者は存在するのでしょうか。多くのかたは被害にあって、報道もされているのに、怪しそうな団体に近寄るのでしょうか。

宗教組織に近づくときは、必ず悩みを持っているのではないでしょうか。現実問題に限らず、過去の家系の問題を引きずっておられるのではないでしょうか。自覚もできていない罪悪感が原因で、宗教など見えない力にすがってしまうのかもしれません。

みなさん、解決したい問題があるのだと思います。

宗教に属していても、何か物を買ったとしても、持っている問題は解決されないことのほうが多いと私は思います。実際、私も宗教に属していても、人生の中で抱えていた問題は解決されず、うつ病もよくもならず、むしろ悪化していくばかりでした。

物を勧められてお金の請求が高い場合は特に、霊感商法ではないかと疑うことが大事であり、家族が巻き込まれるような状況であれば、持っている悩みが何かを考えることもできます。悩みをいえないから、いいたくないから、見えない力にすがってしまうときもありますし、単純に家族を困らせたいから、あえて霊感商法や宗教に関与してしまうのかもしれません。かまって欲しくてそうしているのかもしれません。自覚できていない事柄が理由で人は人生の選択をしている場合もあります。

何かしら理由は必ずありますので、家族や知人など周りのかたは、その理由を探してみることはできると思います。当事者の原因だと決めつけるのではなく、自分自身がそうさせているという視点で考えると、また別の理由は見つかってきますので、自分視点で物事をとらえて考えることをおすすめします。

エホバの証人をやめた理由

エホバの証人をやめた理由

21歳に嫁ぎ先の家族がエホバの証人でしたので、すぐに聖書研究がはじまり、数年後にバプテスマを受けました。そして、エホバの証人となりました。その時も、その後も、エホバの証人をやめようとは一度も考えていませんでした。宗教はどこか面倒でつまらないと思っていたのに続けていました。

聖書を勉強して約20年後、子どもが家出をしました。宗教も、宗教の教理を押し付けてくる親にもうんざりして、家を出てしまったのです。突然いなくなってしまいました。

それから、どうしてこうなってしまったのか、よいと思っていた教理を教えていたのに、どうしてその教えのために、残念な結果になってしまったのかなど、今まで考えもしなかったことを考え始めました。そもそもの理由を考え始めました。

そもそも、宗教はあまり好きではなく、教えで生き方を拘束されるのも好きではなく、自由に生きていたいというのが私という人間でした。ルールがとても苦痛だったのです。その苦痛を子どもにも与えていたことにやっと気づきました。本当に気づくのが遅すぎました。

そういうところにも気づきたくなかったんだと思います。気づいてしまうと家庭内に波風が立ってしまうため、気づかないようにしていました。見たくない現実があり、都合のよい現実を自ら作り出していました。

子どもが家出をして、その理由を考えて、自分にとってエホバの証人の教えとは何なのかと考え、それでも、やめようという選択は持てませんでした。

「もうやめたい」

そういったのは、夫のほうでした。夫の家庭にそもそもエホバの証人の家族がいたのに、そのつながりを切ったのは夫でした。きっと夫がその答えを出さなかったら、私はズルズルとエホバの証人を続けていたと思います。そう考えるとそれも残念で仕方ありません。自分で答えを出す勇気を持てなかったからです。

子どもの家出と、その家出によるその後の夫の決断が、エホバの証人をやめるきっかけとなりました。

エホバの証人や、他の宗教に属していて、やめたいと思っているかたは沢山おられると思います。宗教二世、三世の子どもたちは、特にそう思っているのではないでしょうか。

でも、私のようにやめる勇気が持てないかたのほうが多いと思います。

どうか、自分自身の本当の気持ちを隠さずに、親でも家族でもなく、自分の気持ちや感情を一番大事にして欲しい。誰かをがっかりさせる結果になったとしても、自分の人生は、誰かの人生であってはいけないと思います。今生きている人生はあなたのものです。

宗教をやっていることで、どこかつらい思いをしていたり、苦しく感じているのなら、尚更、誰かの決定に従い生きるのではなく、自分で納得のいく選択をしていただけたらいいなと思います。

エホバの証人をやめるとき、義理の母(エホバの証人)とたたかうことができました。できないことはできない、NOという意思表示やその想いを、初めて自分の言葉で伝えました。震えながら言葉を伝え、反発しました。実母と義母が重なり、投影し、エホバの証人をやめることで義母をがっかりさせたり、嫌われることへの恐怖があったのだと思います。

真の意味で宗教をやめたい、深層心理により、エホバの証人をやめたいと思えたときには、組織から抜け出る道が目の前にあらわれるのだと実感しています。

この社会がよくなるために必要なこと

この社会がよくなるために必要なこと

それは、「現実直視」ができる人が増えること。

4年近く施術と相談業と並行して対応してきて思ったことは、施術目的で来られるかたの多くは現実から逃げていました。自己に向き合おうと努力していましたが、結果、施術して終わり、向き合いかたが浅いような感じでした。

目の前と過去や幼少に問題はあるのに、見ようとしない。または見ているフリをする。問題があるのに、施術で症状がよくなるわけがありません。問題を横や見えないところに置いて、施術で麻痺させているようなものです。むしろ、問題に向き合いたくなくて、施術に来ているのではないかともとれてしまいます。ですから、整体くららでは、施術を主軸として対応するのはやめました。しっかりと問題や自己に向き合うメニュー設定となっています。

まずは、現実問題や幼少や過去問題に向き合う姿勢を持っていただきたい。そして、自分を知ることをして欲しい。そこから、何かしらの変化はおきます。

私のうつ状態も、自分自身の状態を把握できたときに変化してきました。無意味で有害な向精神薬を10年間も飲んでいた自分を知って、愚かだと自覚しました。自分の愚かさや醜さを知ったときに、からだもこころも変化してきました。生き方や考え方が、依存の道から自立の道に変わっていったのです。

何かしらの問題を抱えていましたら、まずは、自分自身がどういう状態なのかを知ってください。現実に向き合ってください。そういう姿を目の前の子どもたちや、次世代七世代先につながる子どもたちに見せてあげてください。そのようにして、この社会も国も、自立していくことになり、その思想が後世に引き継がれるようになり、結果、現在の状態は変化してきます。