大人が性被害にあったとき、性に対する知識や経験により、何が起きたのかを把握することはできると思います。しかし、子どもが性被害にあったとき、全体像を把握することは困難ではないでしょうか。私もsexがどういうものかというのは、実際に経験しなければわかりませんでした。ですから性被害者と認識できたのは大人になってからです。小学生の私には、当時は不快という認識しか持てなかった。その不快さを隠そうと必死だったと思います。なかったことにしようとしていたんだと思います。しかし、体は素直です。その頃から手の震えが出てきていました。少しの物音で不安を感じ、もし何か起きたときに、どう防御したらよいのかと子どもながらに必死でした。
事実を認めたくない。
起きた出来事を事実ではないことにし、認めないことで、自己の心や精神が崩れないよう防御していた状態でした。今思うと忘れようとしていた感覚はあります。ですから誰にもいわなかったですし、いってしまうと現実を受け入れてしまわなければなりません。それは小さな子どもには耐えきれない現実だと思います。
そこから偽りの自分、演技をする自分が生み出されてしまいますが、それでも危機的な状況の場合は、精神の防衛システムのようなものは働きますし、人には必ず備わっている心のシステムだと思います。
当時の私にもしも誰かが「なにかあったの?」と聞かれても、起きた出来事は話さなかったと思います。すでに自分で自分を守る体制に入っているからです。必死に防衛しているからです。
しかし、信頼している人になら話すかもしれません。それは人により違いが生じると思います。
小さな子どもの性被害の対応は、無理に話させるよりも話すまで待つほうがよいのだと思います。大人でも同様ですが、子どものほうが強力な防衛反応により自ら言葉に出さないかもしれない。
現代では社会的に、幼少から性教育を勧めていますが、私は行き過ぎた性教育には反対です。いくら知識があったとしても、教育したとしても、その状況になれば小さな子どもでは無力です。嫌だという一言さえ声に出せない。
それよりも性被害が起きないよう、そういう社会やまちづくりに力をいれることのほうが先ではないでしょうか。性の問題だけではなくあらゆる問題において、大人たちの行動と結果を出すことが先ではないでしょうか。