宗教、カルトに騙されやすい人

宗教、カルトに騙されやすい人

幼少から創価学会の集まりに参加していて、宗教はつまらないし、言っていることはわからないし、宗教に使う時間があるのなら、家族にもっと時間を使って欲しいと思っていました。明らかに、宗教に拒絶があったのに、嫁ぎ先はエホバの証人でした。拒否することもできたというのに、断ることを選択しませんでした。宗教にハマってしまい、聖書の教えを受け入れてしまい、聖書の教えは正しいとさえ思うようになりました。早く楽園が来て、平和な世界になることを切望していました。死者の復活を待ち望んでいました。

当時は、「洗脳ではない」と長老(会衆の頭)に言われていましたが、今、振り返ると「洗脳」でした。何も考えず、他者の意見も聞かず、聖書や神の教えの中だけで選択していました。

人はなぜ、宗教やカルトに騙されたり、ハマってしまうのか。

私の場合は、宗教の教えを信じたほうが都合がよかったからです。嫌いだった宗教だったというのに、ハマってしまったり、騙されていたほうが都合がよかったのです。

どうしてそういえるのか。

エホバの証人は特に家族と一緒にいる時間が多いと思います。ですから、子どものそばにいることができました。子どもにはかわいそうなことをしましたが、小学校までは幼稚園などに通わせず、一日一緒にいる日々を過ごしていました。私にとって、子どもと一緒にいることはミッションのような感じでした。幼少に親にそばにいてもらえないことが多かったので、そういう家族の形にはしたくないという想いが、行動に及んだのだと思います。

他にも幾つか、騙されていたほうが都合がよい理由があります。その数が多ければ多いほど、強ければ強いほど、騙されていたほうがいい状況を自ら作り出してしまうのだと思います。宗教に限らず病気でも家族、夫婦、親子問題でもあらゆるものに対して、作り出してしまいます。

ですから、他者が、家族や知人を宗教から離れさせよう、やめさせようとしても無理です。当人はその状態をむしろ望んでいるからです。宗教に騙されていたとしても、都合がいいのです。永遠と騙されていても、理由がある限りやめることはないでしょう。本人が騙されていることに気づき、都合が悪いと思った時でないと何も変化は訪れません。私たち夫婦、親子もそうでした。互いに宗教を続けることに都合が悪くなった時、宗教からの脱退の道に進んでいきました。きっかけは、私の向精神薬断薬と子どもの家出でした。それさえも必然だったと思います。「もういい加減、気づこうよ、人を喜ばすための宗教はやめようよ」と、合言葉のように、互いに考えが一致したのだと思います。そして、2018年の春、1994年から聖書を学び始めたエホバの証人の組織に対して、脱退の意志を伝えました。

過去を振り返ってみると、いろいろなことを考えることを放棄していたように思います。社会のこと、家庭のこと、家族や子どものことなど。視野も広がりましたので、考えることが増え、調べることが増え、いかに考えていなかったのかという現実を直視することになりました。様々な責任も放棄していたと思います。宗教とは現実から逃げるためのツールにもなってしまうのです。

宗教やカルトに騙されてしまう人、ハマってしまう人は、それなりの理由があるので、周りの力では何もできないと思っていたほうがいいと思います。家族や友人はカルトのような宗教はやめさせたいと思いますが、やめさせる行動を取るよりも、どうしてやめさせたいのか考えたほうがいい。そう思う理由も必ずあるので。

人は隠すものがあると持っているあらゆる力を失ってしまう

人は隠すものがあると持っているあらゆる力を失ってしまう

私には隠すものが沢山ありました。

創価学会、エホバの証人という宗教のこと
性被害者
生い立ち
家の伝承
自分自身の心の奥底にある考え方など

うつ病というのも当初は隠しておきたい事柄でした。本当に隠しておきたい事柄が多くあり、だからこそ、存在も隠したいと思い、うつ病になってひきこもっていました。うつ病になるメリットがありました。

隠しておきたいことがあると、人は持って生まれた特性を発揮しなくなるのではないかと思います。生きる力さえも失ってしまう。様々なクライアントを見てきてもそう思いました。特性のある、しかも自信にも繋がる特質を持っているのに、それらを隠してしまう。隠してしまう原因は、トラウマや生い立ちや環境など、私と同じように様々なものがあります。

私は最後の残された時間を、自分の持っている特性を発揮したいと思いました。そして、性被害をはじめ、生き方考え方などを開示しました。もう、隠しているのも疲れましたし、思っていることを口に出さないことにも疲れました。誰かに好かれるために生きるのも、誰かを喜ばすために生きるのも疲れました。

最後は自分らしく生きたい。

そう思ってからは、自分自身の力を自分で信じることができるようになりました。

誰かに信用信頼されるよりも、自分自身で持っている力を自ら信じてあげたい。

こう思えるようになったのは、明らかに隠すものが減ってきたからであり、そして、一番重要なのは、どこを目指しているのか、人間としてどうありたいか、ただそれだけです。

二元思考(二元論)による宗教脱会後の罪悪感と空虚感

二元思考(二元論)による宗教脱会後の罪悪感と空虚感

最近、ある宗教の二世の子の書籍を読みました。その中には、「集会にはもういかない」と親に伝えたことや、その組織から離れ、親に嫌われることをしてしまう様子が描かれていました。教えに反することや親に嫌われる行動を取ることで、宗教から完全に離れようとしていました。

しかし、最後の一文には「虚しい」と、そう書かれていました。

小さな頃から宗教の教えに触れ、受容していたので、裏切ることは少なからず罪悪感を持つのかもしれません。そして反発して、教えに反する行動を取ったものの、現状は変わらず、教えが全身にインプットされているので、罪悪感はもっと募っていくのでしょう。

これは二元思考(二元論)が関係しています。

教理が「善」
自分自身、不完全な人間が「悪」

こう教えられるのが宗教です。ですから、常に自分自身が「悪」になっているため、罪悪感はいつも抱えており、それは、人によって強弱があるように思えます。

私も0歳から創価学会でしたので、何かしらの教理を教えられてきたと思います。でも、ほとんど覚えていません。覚えているのは平和が掲げられていたことくらいです。だから、その平和から少しでも逸脱すると「罪悪感」が出てきてしまうのだと思います。

そして、宗教二世の子どもたちもそうなのだと思います。個人差はあると思いますが、罪悪感を持っている二世の子たちは多いと聞いています。自分自身が「悪」ととらえているのです。

私もいつの頃からか幸せになってはいけないなど「罪悪感」を強く持つようになりました。一つの理由は、父親が亡くなったことによるものだと精神分析をして認識できましたが、宗教による「二元思考」が影響していることには最近、自覚できました。

きっとこの著者も私と同じような感覚なのではないかと思います。そして、私の場合は、同じことを実の子どもにもしてきてしまったと、後悔の毎日です。子どもが苦しんでいなければと思いますが、人の心は表面には出ないので、見えないところで苦しんでいるのかもしれません。親として謝り、こうして綴って思いなど残しておくことしかできません。

宗教二世の子どもたちがもし、このブログにたどり着いたのなら、自分自身を「悪」にしていないか考えてもらえたらと思います。そして、「悪」にしている根本の理由を探し出していってほしいなと思います。

私も学生の頃から罪悪感を持って生きていました。結婚してそれは強く出るようになり、うつ病、自殺未遂など経験してきました。常に傷つけている状態でした。

その理由が、宗教の教え、幼少の環境、生き方考え方、アダルトチルドレン像、そして、自分自身では認識も自覚もできていない、家の伝承でした。もっと理由はあるのかもしれません。

自己に向き合うことはとても苦しい作業ですが、一番、重要視していただきたいのが、「周りのせいにしない」ということです。被害者意識を持ってしまうと、善と悪でしか考えることができず、自分自身を善とし、正しくしてしまいます。(悪にする必要もありません。)すべては自分で選択してきたのに。私もエホバの証人の家に嫁ぎ、うつ病になり、精神科に行き、精神薬を服用し、ひきこもり、人との関係を遮断し、自殺未遂に至った事柄は、どれも誰かにそうされたのではなく、自分自身で選んできたことです。誰にも文句はいえない。

ぜひ、被害者意識を持たずに自己に向き合っていただけましたら、このブログ記事にも意味があるのだと思います。

参考書籍

創価学会の家庭に生まれ、エホバの証人の家に嫁いで、今、宗教から離れて思うこと

創価学会の家庭に生まれ、エホバの証人の家に嫁いで、今、宗教から離れて思うこと

生まれてから創価学会。そして、嫁ぎ先がエホバの証人。結婚してから聖書を学び、数年後、水のバプテスマを受けてエホバの証人になりました。

宗教から脱退して今年の春で4年が経ち、今、伝えたいことは、宗教の教えは人を支配できるということ。そして、宗教はいくら家族、子どもでも強要してはいけないということです。

私たち夫婦は、子どもに良い教え、この聖書の教えを守らないと楽園に入れないといい、聖書の基準を押しつけてしまいました。

例えば、国旗掲揚をしてはいけない、国歌を歌ってはいけない、誕生日を祝ってはいけない、世の人(エホバの証人以外の人)とは深く関わってはいけない、大学には進学しないほうがいい、簡素な暮らしをし、恋人や結婚相手は聖書を学んでいる人でなければいけないなど。多くの決まりごとありました。そうしなければ命に関わると恐怖や不安を与え、一方的に私たちが学び出した宗教を、子どもに押し付けてしまいました。

それの何が悪いのか。命が関係しているのだから当たり前のことをしているだけだ。

そう、現役のエホバの証人でしたら言ってくると思います。

私は、子どもの命の権利を親が持っていいのか?命は自分自身なのだから、その重さも価値も、その子自身が責任を負うものであり、その権利を親が、支配、コントロールしてはいけないんだと強く思いました。子どもに対してしてきたすべてのことに後悔しました。申し訳ないと思いました。

教えや基準は規律性が維持できて、いいことでもありますが、それと同時に自由さが奪われてしまいます。これこそ表裏一体であり、だからこそ、宗教や教理というものは、時として人を傷つけてしまうということも、認識しておくべきです。そういうことに無知であり、ただただ良い教えだと受容するばかりで、いろいろなことを考えていませんでした。子どもが苦しんでいることに気づくことができませんでした。

そもそも、人にはみな、信教の自由が法で定められています。

信教の自由とは、宗教を信じ、信じない自由のことで、憲法20条1項前段において、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と規定されています。(引用元:https://www.yokohama-roadlaw.com/glossary/cat4/post_138.html )
※参照資料:法律資格合格応援サイト 日本国憲法の話

選択の自由さえも、子どもから奪っていたことに気づけなかったことを自覚した時は、とてもつらかったです。子どもに対して酷いことをしてきてしまいました。少しでも、もう後悔のないように、考えることができる親、大人でありたいと思います。宗教で苦しんでいる、特に二世の子どもたちに何か伝えることができればと思い、宗教に関する悩みや事柄など、発信していけたらいいなと思い、今後もブログで綴っていきます。