なぜエホバの証人という宗教を選んでいるのか〜隠れた精神性をみつける〜

なぜエホバの証人という宗教を選んでいるのか〜隠れた精神性をみつける〜

なぜ親はエホバの証人という宗教を選択したのか。

そう思う宗教2世の子どもは必ずいることでしょう。多くの宗教が存在する中で、なぜエホバの証人をしていたのか。

その理由がわかる、隠れた精神性について語りたいと思います。

整体くららが主軸として活用している「内海式精神構造分析」では、家系図作成により、そこからあらゆる精神性をみつけだし、問題に対しての根本原因を探していきます。

病気や問題には環境や食など物質的な原因もありますが、心身一如という名の通り、精神も関係しているからです。その精神性にはこのようなものがあります。

アダルトチルドレン
メタファー
フラクタル
ジレンマ
トラウマ
バーストラウマ
カルマ
深層心理
承認欲求
転写行為
代償行為
苦痛の共有(同情)
共依存
疾病利益
潜在的罪悪感
情緒的近親相姦
疑似虐待
愛着障害
支配欲
反発心
正義心
嫉妬心
復讐心
闇の計画
など

私にとってどうしてもエホバの証人にならなければならない、隠れた精神や、想いや、深層心理や闇の計画がありました。

例えば、実家は創価学会という仏教でした。エホバの証人はキリスト教になるので、親への反発心がそこにはあります。

救済や復活というテーマがある、エホバの証人。早世の父親や交通事故死の祖母、そして性被害者としての自分自身、母や兄や妹と、すべてを救済してほしいという願望も含まれています。

宗教は面倒でマイノリティーでもあります。母親と同じことをしていたいという思いもあり、別の宗教にはなりますが、苦痛の共有もあてはなると思います。家族を助けれなかったという潜在的罪悪感により、苦痛の共有を選んでいたことがわかりました。

人々に宣べ伝えたり聖書を教えたりと、人のお世話をしている状態でもありました。アダルトチルドレンのリトルナースなどにも関係します。

エホバの証人はとにかく決まり事が多かった。創価学会よりも多く、窮屈でした。その教えを使い、子どもを支配していました。同じように苦痛を与えてしまった。ここにも苦痛の共有があり、私と母、私と子という関係性で苦痛の共有があることがわかります。

情緒的近親相姦は自分とは別の性ととらえがちですが、私はとても母親が好きだったと思います。母親のようになりたいとずっと尊敬し、そう思っていたからです。これは、男の子が父親を好きになることもあると考えています。父親と男の子どもの間にも、情緒的近親相姦はあると思います。そして兄弟の間でもあります。

母親という存在を義母に投影することにより、そこには転写行為があります。

性被害者にとっては、これ以上、性的に傷つきたくないという思いは強いと思うので、エホバの証人の教えにより守られていたことは実感しています。社会からも人からもある程度距離が置かれていましたし、私の周りでは道徳的にも基準は高かった。守られたいという深層心理もあり、自ら一番守られるところを探し、エホバの証人の家庭に嫁いだのだと思います。

まだまだあるのですが、エホバの証人という1つのワードからも、これだけの精神が影響を及ぼしています。その精神は深層心理にあるので、ほとんど気づくことなく、潜在的にエホバの証人を選んでいることになります。

あなたの家族にも必ずいくつもの精神が働き、エホバの証人を選んで活動をしています。

ですから、本人がこれらの精神に気づかないかぎり、やめさせることは困難が生じます。潜在的精神が働いているので、本人自身が何に突き動かされて宗教をしているのかわからず、聖書の教えはよい、楽園になればみんな平和で平等な生き方ができる、永遠に生きられるなど、表面的な思いによりエホバの証人をしているということです。

何か大きなきっかけがないかぎり、人が生き方考え方をひっくり返すことは難しい。

そして、もし宗教やエホバの証人をやめさせたいと思った時は、まずは自らのこのような精神性に気づくことが先であり、自分から変わるしか方法はありません。

自分が一番、宗教をやっていてほしいと思っているという精神、深層心理があることに直面することが、何よりも先であり、みえないものにこそ意識を向け、思い巡らし、推測などしていただければと思います。

人間は矛盾の塊

人間は矛盾の塊

結婚して、嫁いで、姑のことはとても怖かったし、面倒だったし、できることなら距離を取って生きていたかった。

しかし、精神分析をしてみると、とても大好きということがあからさまになってしまった。一番わかりやすいのが、嫌いな存在なのに、今でもそばにいるということ。物理的な距離感は視覚でも認識することができ、とてもわかりやすい。

私の中で姑に対して、好きと嫌いが同時にある。矛盾している状態であり、表裏一体であり、しかしそれが人間という生物だ。

方向性の違うものが同時に自分自身の中にあるのだから、一体、正義や正解はこの世のどこにあるというのだろうか。何かに対して議論すること自体、馬鹿馬鹿しいことになる。

そして、矛盾を意識して生きていくことは、自分を生物らしく生きる助けになるのではないかとも思う。

動物には矛盾はないと思うし、素直であり、裏を読んだり、先を読んだりせずに生きている。

人間はそうではない。

常に欲求的であり煩悩があり、何よりこの世と地球をみても、至る所を汚しまくり罪深い。

せめて自分自身の矛盾を自覚できればいいと思い、精神分析を続けている次第であるが、きっとそこまでつきつめてできる人間はあまりいないのではないかとも思います。

だから他者の闇も中途半端な見方、分析になってしまっているように思う。

私も矛盾人間だからこそ、善悪のない視点で精神分析をするように、そういう生き方考え方を忘れず意識したい。

フラクタルとカルマ(業)

フラクタルとカルマ(業)

精神分析では問題の本質をみつけだすために、繰り返すものである、フラクタル、相似形をみつけだす作業をします。

内海聡【公式】 YouTubeチャンネル【氣と精神】シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=-MKtAb1QMj8&list=PL6TNiENVDMQgph1rbtkK10T-ZJNgtwdJy

このフラクタルというのは、家系図から書き出していくと、繰り返されている現象が多くみつかります。それが多ければ多いほど、因縁が深く、執着が強く、カルマ家系だと内海式精神構造分析ではそうとらえられています。

カルマ(業)とは、内海式精神構造分析の観点では「罪の伝承」といわれており、家伝的要因が含まれています。例えば、水子や早世、病死や事故死や自殺など、連続した現象が目立ち、繰り返されていると、そこには因縁が深く、罪の伝承が強く、カルマ家系であるといわれています。

仏教ではこの業、カルマを輪廻ととらえられているのかもしれません。繰り返されている行為よる結果が悪いことが多い場合、例えば病気が続く場合などは、悪い事柄が生と死の連続のなかで繰り返される。

私は輪廻はないと思っている人間なので、この輪廻にあたるものが、内海式精神構造分析ではフラクタルの部分ではないかと思っています。これは私個人の今の解釈なので、間違っているかもしれません。

まだ、この文章を書いていても、上手く腑に落とせていませんので、内容も伝わらないかもしれませんが、今は思ったことを書き留めておきたいと思います。

参考になった動画
カルマ=行為=業 中村元(なかむらはじめ)
https://youtu.be/JO-S5RQbl-U?si=pEg9wXLi65C1xAnk

髪の毛と力を失った裁き人

髪の毛と力を失った裁き人

エホバの証人時、学んでいた聖書の中では、一番、力を持ったサムソンという裁き人の話が出てきました。巨大な力の源は髪の毛にありました。それを知った悪者が、サムソンを捕らえ、髪の毛を切りました。そして、サムソンは力を失った。

髪にもメタファーがあり、隠れた精神性があります。

サムソンのように髪の毛を失う人は、力を落としているともいえます。また、自分がなくなっているともいえる。力とは生命力でもあるからです。

人は反省するときに坊主にしますが、髪を失うとは、懺悔や後悔という精神性も隠れています。恥じらいも含まれるのではないでしょうか。

聖書中の内容では、サムソンの髪の毛は再び生えてきて、力を取り戻したそうです。そして、何千人という悪者に反撃しました。聖書の神は愛ある神なので、いつもクレイジーな出来事に本当に愛があるかと疑問符でもあるのですが、メタファー的には学べる聖書でもあります。

髪の毛は単純にアンテナでもあると思います。情報でも気候でもいろんなものをキャッチしている。そして、頭脳という重要な部分を保護しています。

現代ではハゲは非常に増えていますが、自分というものがなく、アイデンティティの喪失でもあるのではないでしょうか。東洋医学から考えると髪の毛は腎臓膀胱経でもあります。何かしら対する恐れという感情に支配されているのかもしれません。