創価学会の家庭に生まれ、エホバの証人の家に嫁いで、今、宗教から離れて思うこと

創価学会の家庭に生まれ、エホバの証人の家に嫁いで、今、宗教から離れて思うこと

生まれてから創価学会。そして、嫁ぎ先がエホバの証人。結婚してから聖書を学び、数年後、水のバプテスマを受けてエホバの証人になりました。

宗教から脱退して今年の春で4年が経ち、今、伝えたいことは、宗教の教えは人を支配できるということ。そして、宗教はいくら家族、子どもでも強要してはいけないということです。

私たち夫婦は、子どもに良い教え、この聖書の教えを守らないと楽園に入れないといい、聖書の基準を押しつけてしまいました。

例えば、国旗掲揚をしてはいけない、国歌を歌ってはいけない、誕生日を祝ってはいけない、世の人(エホバの証人以外の人)とは深く関わってはいけない、大学には進学しないほうがいい、簡素な暮らしをし、恋人や結婚相手は聖書を学んでいる人でなければいけないなど。多くの決まりごとありました。そうしなければ命に関わると恐怖や不安を与え、一方的に私たちが学び出した宗教を、子どもに押しつけてしまいました。

それの何が悪いのか。命が関係しているのだから当たり前のことをしているだけだ。

そう、現役のエホバの証人でしたら言ってくると思います。

私は、子どもの命の権利を親が持っていいのか?命は自分自身なのだから、その重さも価値も、その子自身が責任を負うものであり、その権利を親が、支配、コントロールしてはいけないんだと強く思いました。子どもに対してしてきたすべてのことに後悔しました。申し訳ないと思いました。

教えや基準は規律性が維持できて、いいことでもありますが、それと同時に自由さが奪われてしまいます。これこそ表裏一体であり、だからこそ、宗教や教理というものは、時として人を傷つけてしまうということも、認識しておくべきです。そういうことに無知であり、ただただ良い教えだと受容するばかりで、いろいろなことを考えていませんでした。子どもが苦しんでいることに気づくことができませんでした。

そもそも、人にはみな、信教の自由が法で定められています。

信教の自由とは、宗教を信じ、信じない自由のことで、憲法20条1項前段において、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と規定されています。(引用元:https://www.yokohama-roadlaw.com/glossary/cat4/post_138.html )
※参照資料:法律資格合格応援サイト 日本国憲法の話

選択の自由さえも、子どもから奪っていたことに気づけなかったことを自覚した時は、とてもつらかったです。子どもに対して酷いことをしてきてしまいました。少しでも、もう後悔のないように、考えることができる親、大人でありたいと思います。宗教で苦しんでいる、特に二世の子どもたちに何か伝えることができればと思い、宗教に関する悩みや事柄など、発信していけたらいいなと思い、今後もブログで綴っていきます。

祈りとは、意を宣る

祈りとは、意を宣る

最近、「意宣り」という言葉を知りました。
いのりとは平和を願ったり、病気が治りますようにと願ったり、感謝や悔い改めの「祈り」なのかなと思っていました。

「意を宣る」

意宣りとは、自分の意思を意図を宣言することだそうです。例えば「子どもたちが笑顔で平和に暮らせるよう、自分は〇〇します」と具体的な行動を宣言します。

お願いするだけの他力本願ではなく、自ら行動する態度で意宣り、能動的で力強さを感じますね。祈りと意宣りの2つがあっての「いのり」という方もおられます。

今年も後2週間。あなたはこの世界を見てどんな意宣りをしますか。

自ら行動しようと努力している団体、市民団体を知ってほしいです。
市民がつくる政治の会

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