エホバの証人の復活と平和という教理で足りない部分を埋めていた

エホバの証人の復活と平和という教理で足りない部分を埋めていた

人は自分に足りないものを埋めようとする生き物です。ですから、ある人にとっては、その宗教の教えにより、虚しさや悲しさや絶望感などからくる心の隙間を埋めようとします。魅力的な教理なら、尚更、すぐに足りていなかった部分を埋めてくれます。

エホバの証人の魅力的な教理、インパクトのある教理は「平和な楽園」と「死者の復活」でした。
私にとって足りていなかった「平和」「復活」が目の前に現れ、心の隙間を埋め、そうすることで安定感も得られたのだと思います。

きっと幼少期の家庭内も不安定であり、結婚してからも不安定だったと思います。不安定な状況に陥った時こそ、宗教の教えによりその状況は「安定」へと変化していくのだと思います。偽りの安定ですが、一つの教えにより自分にとって軸ができるので、自分自身が安定する感じなのかもしれません。イメージとしては、乱れた道がまっすぐな道になったような感じです。

そして、私にとって、エホバの証人の教えで一番魅力的だったのは、「復活」でした。

父親のことは今でもほとんど思い出すことはできません。7歳までの思い出があるのに。きっと駄目な父親だったと思いますが、それでも会いたいとどこかでずっと思っていました。そして、祖母も突然の事故により亡くなっているので、死者の復活があるのなら、これはとても喜ばしい教理でした。

教理を信じたほうが都合がよかった。

自分自身が不安定さや、悲しみや、想いが重なり、宗教を信奉するという現実を自ら作り出したのだと思います。

家庭内の問題により安定さがないと、やはり、宗教に流されていくのだと感じました。不安定というものが、いかに宗教を自分自身や家庭内に取り込んでしまうのか、その力はとても強く働くのだと思います。

現代は人も家庭も社会も不安定です。

宗教トラブルは若者にまで及んでいます。

どれだけ、自分や家庭やその周りを安定させるのか、そうすることで宗教だけではなく、様々なトラブルは回避できるのではないでしょうか。

そして、その安定さは簡単には手に入らず、調べたり、考えたり、自ら答えを出したり、責任を負うなど、自立が求められます。宗教の教えをただ信じるだけの楽な道では、決して得られないのです。

人はなぜ宗教にハマってしまうのか

人はなぜ宗教にハマってしまうのか

エホバの証人の組織の中にいて、全体的に家族の問題を抱えている方は多かったです。夫婦問題、親子問題、家庭内の不和など。

人が宗教にハマってしまうのは、一つの理由としては、現実から逃げるためだと思います。私も実際そうでした。家庭内の現状に嫌気が差していたのに、いつの頃からかその想いは口にすることはしなくなりました。「もう何を言っても無理だ」そう感じていました。家を出ても行くあてもなかったので、言葉を封じていたほうが都合がよかったのです。自分自身の居場所作りのために、宗教にハマっていたのです。

自分の意志とは反した行動を取っていたので、うつ病になったのだと思います。そして、病気になっている信者は多かった。特に、二世の子どもたちは、自ら聖書や神を信じたわけではないので、親を喜ばすための宗教のために、自分の気持ちに反した行動を取り、病気になっていたと思います。人は感情を隠し、封じてしまうと病気になりやすいです。

宗教にハマってしまう理由、洗脳されやすい理由が、現実逃避というものだけではなく、様々な理由があります。

1.自分がない(生き方考え方、ポリシーや自分軸がない)
2.自信がない
3.選択、責任が取れない
4.自分は悪くない、すべて周りが悪いと人のせいにする(常に被害者意識でものを語る)
5.依存心が強い
6.自分が何者なのかわかっていない
7.楽な道を選ぶ
8.現実逃避(悩みや問題からの逃避)

など

もっとあると思いますが、これらはすべて私がそうでした。その状態だと気づいた時には、とても残念でしたし、愚かな自分を知って自己卑下するしかなかったのです。

人は、信じたいものしか信じませんし、見たい現実しか作り出しません。もしも、現実が酷くてつらいものだとしても、その状況を作り出しているのは、明らかにあなた自身です。その現実を直視できた時にだけ、現状は変化していくのだと思います。私たち家族も自分自身の愚かな現実、現状を直視して、私のうつ病は治っていき、家出をした子どもとは和解でき、宗教も脱退できました。現実直視と自己卑下はあらゆる問題解決において、とても重要といえるのです。

宗教、カルトに騙されやすい人

宗教、カルトに騙されやすい人

幼少から創価学会の集まりに参加していて、宗教はつまらないし、言っていることはわからないし、宗教に使う時間があるのなら、家族にもっと時間を使って欲しいと思っていました。明らかに、宗教に拒絶があったのに、嫁ぎ先はエホバの証人でした。拒否することもできたというのに、断ることを選択しませんでした。宗教にハマってしまい、聖書の教えを受け入れてしまい、聖書の教えは正しいとさえ思うようになりました。早く楽園が来て、平和な世界になることを切望していました。死者の復活を待ち望んでいました。

当時は、「洗脳ではない」と長老(会衆の頭)に言われていましたが、今、振り返ると「洗脳」でした。何も考えず、他者の意見も聞かず、聖書や神の教えの中だけで選択していました。

人はなぜ、宗教やカルトに騙されたり、ハマってしまうのか。

私の場合は、宗教の教えを信じたほうが都合がよかったからです。嫌いだった宗教だったというのに、ハマってしまったり、騙されていたほうが都合がよかったのです。

どうしてそういえるのか。

エホバの証人は特に家族と一緒にいる時間が多いと思います。ですから、子どものそばにいることができました。子どもにはかわいそうなことをしましたが、小学校までは幼稚園などに通わせず、一日一緒にいる日々を過ごしていました。私にとって、子どもと一緒にいることはミッションのような感じでした。幼少に親にそばにいてもらえないことが多かったので、そういう家族の形にはしたくないという想いが、行動に及んだのだと思います。

他にも幾つか、騙されていたほうが都合がよい理由があります。その数が多ければ多いほど、強ければ強いほど、騙されていたほうがいい状況を自ら作り出してしまうのだと思います。宗教に限らず病気でも家族、夫婦、親子問題でもあらゆるものに対して、作り出してしまいます。

ですから、他者が、家族や知人を宗教から離れさせよう、やめさせようとしても無理です。当人はその状態をむしろ望んでいるからです。宗教に騙されていたとしても、都合がいいのです。永遠と騙されていても、理由がある限りやめることはないでしょう。本人が騙されていることに気づき、都合が悪いと思った時でないと何も変化は訪れません。私たち夫婦、親子もそうでした。互いに宗教を続けることに都合が悪くなった時、宗教からの脱退の道に進んでいきました。きっかけは、私の向精神薬断薬と子どもの家出でした。それさえも必然だったと思います。「もういい加減、気づこうよ、人を喜ばすための宗教はやめようよ」と、合言葉のように、互いに考えが一致したのだと思います。そして、2018年の春、1994年から聖書を学び始めたエホバの証人の組織に対して、脱退の意志を伝えました。

過去を振り返ってみると、いろいろなことを考えることを放棄していたように思います。社会のこと、家庭のこと、家族や子どものことなど。視野も広がりましたので、考えることが増え、調べることが増え、いかに考えていなかったのかという現実を直視することになりました。様々な責任も放棄していたと思います。宗教とは現実から逃げるためのツールにもなってしまうのです。

宗教やカルトに騙されてしまう人、ハマってしまう人は、それなりの理由があるので、周りの力では何もできないと思っていたほうがいいと思います。家族や友人はカルトのような宗教はやめさせたいと思いますが、やめさせる行動を取るよりも、どうしてやめさせたいのか考えたほうがいい。そう思う理由も必ずあるので。

人は隠すものがあると持っているあらゆる力を失ってしまう

人は隠すものがあると持っているあらゆる力を失ってしまう

私には隠すものが沢山ありました。

創価学会、エホバの証人という宗教のこと
性被害者
生い立ち
家の伝承
自分自身の心の奥底にある考え方など

うつ病というのも当初は隠しておきたい事柄でした。本当に隠しておきたい事柄が多くあり、だからこそ、存在も隠したいと思い、うつ病になってひきこもっていました。うつ病になるメリットがありました。

隠しておきたいことがあると、人は持って生まれた特性を発揮しなくなるのではないかと思います。生きる力さえも失ってしまう。様々なクライアントを見てきてもそう思いました。特性のある、しかも自信にも繋がる特質を持っているのに、それらを隠してしまう。隠してしまう原因は、トラウマや生い立ちや環境など、私と同じように様々なものがあります。

私は最後の残された時間を、自分の持っている特性を発揮したいと思いました。そして、性被害をはじめ、生き方考え方などを開示しました。もう、隠しているのも疲れましたし、思っていることを口に出さないことにも疲れました。誰かに好かれるために生きるのも、誰かを喜ばすために生きるのも疲れました。

最後は自分らしく生きたい。

そう思ってからは、自分自身の力を自分で信じることができるようになりました。

誰かに信用信頼されるよりも、自分自身で持っている力を自ら信じてあげたい。

こう思えるようになったのは、明らかに隠すものが減ってきたからであり、そして、一番重要なのは、どこを目指しているのか、人間としてどうありたいか、ただそれだけです。