髪の毛と力を失った裁き人

髪の毛と力を失った裁き人

エホバの証人時、学んでいた聖書の中では、一番、力を持ったサムソンという裁き人の話が出てきました。巨大な力の源は髪の毛にありました。それを知った悪者が、サムソンを捕らえ、髪の毛を切りました。そして、サムソンは力を失った。

髪にもメタファーがあり、隠れた精神性があります。

サムソンのように髪の毛を失う人は、力を落としているともいえます。また、自分がなくなっているともいえる。力とは生命力でもあるからです。

人は反省するときに坊主にしますが、髪を失うとは、懺悔や後悔という精神性も隠れています。恥じらいも含まれるのではないでしょうか。

聖書中の内容では、サムソンの髪の毛は再び生えてきて、力を取り戻したそうです。そして、何千人という悪者に反撃しました。聖書の神は愛ある神なので、いつもクレイジーな出来事に本当に愛があるかと疑問符でもあるのですが、メタファー的には学べる聖書でもあります。

髪の毛は単純にアンテナでもあると思います。情報でも気候でもいろんなものをキャッチしている。そして、頭脳という重要な部分を保護しています。

現代ではハゲは非常に増えていますが、自分というものがなく、アイデンティティの喪失でもあるのではないでしょうか。東洋医学から考えると髪の毛は腎臓膀胱経でもあります。何かしら対する恐れという感情に支配されているのかもしれません。

エホバの証人の精神的強さと生命力

エホバの証人の精神的強さと生命力

私が所属していたエホバの証人の会衆では、がんや精神疾患など病人はいましたが、比較的みな長寿でした。長寿の理由のひとつは、永遠の命と楽園という希望を持っていたからだと思っています。何かしらの希望や目標を持っている人の生命力は、持っていない人よりも強いことは確かです。しかし、これは表面的な理由です。では、深層心理では何を思っているのか。

ひとつ考えられることは、死への恐れがあるのではないかと思います。

一度、事故に合い、死を身近に感じた人もいることでしょう。家族の苦しい闘病生活を現実で体験し、そこから死への恐れを経験した人もいるでしょう。または、この世に出ることができなかった人の命、その子の死を無駄にしないために、頑張って生き続けているのかもしれません。

何にしろ、死ということに執着があるからこそ、この世から離れないといえます。私も父親や祖母など、いろいろな人の死をみてきました。私は自殺未遂者で死んでいたかもしれませんが、今、生きているのは、私自身も死への恐れや執着があるのだと思います。ですから、永遠に生き続けられる楽園がテーマとなっている宗教団体である、エホバの証人に属していました。家族の復活もどこかで期待していたことでしょう。家族に会いたいと思ったことでしょう。

生きる力や行動力はどこからでも生み出すことはできます。エホバの証人や宗教組織に属することはもうないですが、精神的な強さの維持や学ぶ姿勢、人々へと伝えようとする努力と行動力は、エホバの証人時に得たものなので、そういう姿勢は大事にしていきたいと思います。

エホバの証人と儒教精神

エホバの証人と儒教精神

エホバの証人のとき、つらく感じていたひとつは、夫に服従しなくてはならなかったことです。同じ人間なのに対等ではなかった。聖書の教えでは、エフェソス5章にあるように、「妻は自分の夫に服しなさい」とあり、夫と妻の関係性をみたとき、夫が妻よりも上の立場にありました。

違う意見があったとしても、最終的には家庭の頭である夫の意見を尊重し、服さなければならない。私が意見をいうことはあまりなくなっていました。

しかし、その考え方は私が望んでいた現実でした。自分自身のルーツに韓国や儒教精神が影響していたからです。当時は儒教の教えさえしらなかった。しかし、親や目上の人を大事にするなど、私の内に根強く儒教精神がありました。

夫に服するとはある意味、楽だったのかもしれません。意見を持たず発言しないのは、責任が課されることもなくなるからです。それだけではなく、自分を低めていることで夫を高めることもできます。どこか自分の父親を夫に重ね合わせていたと思います。子どもからみればいい迷惑であり、情けない母親でした。

自分がなくなるほどの親を大事にして、親や夫に服従するばかりなのは嫌ですが、儒教思想にはよい考え方もあります。

儒教の創始者である孔子は、「武力によって他者を支配しようとするのではなく、君子の徳によって天下を治めるべきだ」といわれ、国のリーダーが他人を思いやる気持ちを持つほうが、政治がうまく成り立つと主張しました。

理想論かもしれませんが、義を思い、立派な人間になろうと努力する国民の徳や利益を考える政治家が増え、孔子の考え方が日本の政治に反映されれば、今よりはよい国の状態になるかもしれません。

今ではエホバの証人から脱退し、対等に意見をいい合い、議論できていますが、以前では考えられないことでした。意見を持つこと、自分の考え方や生き方をしっかりと持つこと、そして発した言葉と行動に責任を持つことは、自分という人間が何者なのかという答えが見つかるのだと思います。アイデンティティが確立されてきます。

儒教思想やさまざまな思想から、いろいろと歴史から学び、独自の思想を持てるようにこれからも成長できたらと思う日々です。

そして、自分のルーツを深めることはアイデンティティの確立にもつながるので、ルーツに関係がある、儒教、儒学や孔子についてもう少し学んでみたいと思います。

本当の自分を生きる

本当の自分を生きる

「自分がわからない」というかたは、今の時代はたくさんおられると思います。

それは、人に合わせることが現代の教えのひとつにもなっているからです。人の嫌なことをしない、人の喜ぶことをする、人の気持ちを考えて行動するなど、家庭や学校で教わってきたことでしょう。いわゆる体裁主義であり、忖度精神です。

ですから家庭や親のいいなりとなり、ロボットや奴隷となり、社会に出たら会社や組織の奴隷となるのではないでしょうか。現代でいう社畜への拒絶は、家庭環境への投影なのかもしれません。

宗教団体にのめり込んでしまう人々の思考は、養育や教育の現場からも発生されているともいえます。自分がわからなくなるほど周囲に合わせるという思考が先に働き、宗教の教えに染まりたくなる。自分の意見を持たないことは楽であり、責任も負わなくて済みます。

では、本当の自分はどこから探せばいいのでしょうか。

生まれたその瞬間に、すでに家庭環境に合わせた生き方をしている可能性は大いにあります。ですから、自分の生まれ出た瞬間の情報、つまり生年月日や名前から「自分は何者か」という答えを出すことはできます。自分の姿は、占いの学問からある程度は理解できます。

そして、あわせてきた家庭環境によりあなたの生き方考え方は作り上げられました。ですから、家庭環境や親子関係からも、本来の自分の姿を見つけ出すことは可能です。

あなたは自分を素直に生きているというかもしれません。しかし、もしも現実の問題があり、生きづらさを感じているとしたら、鏡に映った自分はすでに演じている自分でもあります。

自分を素直に生きていないから、何かに悩み、その悩みの解決方法が見つからないともいえます。

素直に生きることができれば、人生の中で起きる問題や悩みごとの解決方法は、案外簡単なのかもしれません。

本当の自分を知り、自分が何に執着し、パターン性が理解できれば、解決というゴール地点に立つことは誰にでもできます。ただしそのゴールの先へ一歩踏み出す選択は、本人次第なのだと思います。