その同じ口で愛を語る

その同じ口で愛を語る

命を粗末に語る人間が、その同じ口で娘への愛を語るのですか。(薔薇のない花屋より引用)

人には一貫性のない言動はよくあります。

まさにエホバの証人もそうでした。きれいごとばかりでした。家族の生き方考え方を抑圧しながら、表面的で体裁主義で、見た目が良ければよしという感じでした。家の中では問題が起きているのに、奉仕では人々に愛と平和を語っていました。家と外で語る言葉と思いには一貫性がなく、子どもは、サタンが悪魔というよりも、目の前の親が本物の悪魔だと思っていたことは明確です。

挙げ句の果てに、言い訳の言葉は、「人間は不完全だから」です。アダムとエバの犯した罪を持ち出し、被害者づらをし、この世はサタンが支配しているとまでいい、一貫性がなくても、問題や間違いが起きても、「仕方ない」という。愛を学び、愛を宣べ伝える人々がそういうのです。なんと素晴らしい愛ある人なのでしょう。笑

エホバの証人に限ったことではない。
人間とは、愚かな生き物でしかない。

ですから、その愚かさで子どもや他者を傷つけないようにしたい。愚かさから逃れることができなくても、今よりまともな人間になれるよう、向上心を持って生きていたい。

私も以前は命を粗末にしていました。自殺未遂の経験があるからです。日々、死にたいと思い、口にしていたにも関わらず、エホバの証人として奉仕をし、愛と平和な楽園、永遠の命という希望を宣べ伝えていました。命を粗末に語るその口で愛を宣べ伝えていました。当時、一貫性がないことに気づいていなかった。嘘つきで一貫性のない自分のことがわかっていなかった。

せめて残りの人生は、自分の内面、精神もよく理解し、自覚し、生きていたい。その積み重ねが、人と人との関係性や、社会や日本が元気を取り戻せるのではないかと思っています。

エホバの証人をやめたあとの私の生き方

エホバの証人をやめたあとの私の生き方

この春、エホバの証人をやめて7年になります。

エホバの証人をやめたのは、子どもが親と宗教に嫌気がさして家出をしたのがきっかけでした。

家出をする前に子どもが恋愛をしました。相手が未信者のため、聖書のきまりで支配し、ふたりが付き合うことに対して条件をつけました。今では私たち夫婦がしてきたことに対して謝罪をし和解していますが、愚かな行動でした。人間の根底には「人を支配したい」という欲求が存在するということが、痛いほどよく理解できました。人間とは、悲しく虚しく醜い生き物です。人間の本質を自覚できたことで、これ以上、子どもを傷つけないようにと思えます。

エホバの証人をやめるきっかけは、人それぞれです。やめたいのにやめれない理由は、誰かの反応を意識しているからではないでしょうか。私も、子どもの家出と、夫がエホバの証人をやめたいといわなければ、やめていなかったと思います。家族にエホバの証人がいて、家族が悲しむ、家族が怒るなど、家族の反応がどのように出てくるかと想像すると、宗教をやめる勇気は持てなかった。子どもの自由性を奪っていました。犠牲にしてしまった。

宗教二世や宗教をやめたいと思っている人は、自分ひとりのことならやめたいと思えば、すぐにでもやめれると思います。それができないのは誰かの意見を重要視しているからではないでしょうか。誰かの感情を優先しているからではないでしょうか。その選択により、そもそも誰の人生を生きているのでしょうか。

私は私の人生を生きたい。

自分の人生を生きていなかったから、自分という確固とした意見や意思を持っていなかったから、宗教の教えにすがり、思想にすがり、宗教生活に子どもを巻き込んでしまいました。

そして、自分がどうして創価学会二世からエホバの証人一世になったのか、その理由を知ることにより、エホバの証人に戻ることはないという強い決断もできています。

今でも、記念式や大会の招待は家族や知人から連絡がきます。もしかしたらそのような連絡に対して、心が反応してしまう人もおられるでしょう。やっぱり戻ったほうがいいと、戻ったほうがざわついた心が楽になると、自分の想いを一番大事にせずに、他者の言葉を優先して、組織に戻られてしまう方もおられるでしょう。

そのときに重要な事柄は、「どうしてそのように反応してしまうのか」です。表面的な心の反応ではなく、無自覚の領域に存在する深層心理の何が反応しているか。その理解と自覚により、私は2度とエホバの証人の組織に戻ることはない。

エホバの証人の組織に属していたときは、現実逃避と反発心と防衛などさまざまな要素が影響して、エホバの証人という宗教を選択していました。そこには得と損もありました。エホバの証人の組織にいたということには明確な理由があり、それは宗教に属しているすべての人にも必ず理由があります。その理由がわかればあとは、自分自身がどう生きていくか、何を選択するか、それのみです。

そして、被害者意識をどれだけ捨てることができるか。そうすることで、宗教団体や宗教教理、親や家族など、それらの執着から逃れられる道へと歩んでいけます。

二元思考(二元論)による宗教脱会後の罪悪感と空虚感
https://seitai-kurara.com/archives/3715

性被害者と怒り

性被害者と怒り

人には必ず後悔はあると思います。もちろん私にもあります。子どもの特異性や生き方や考え方を、宗教で抑えてしまいました。父親祖母を助けれなかった後悔もあります。そして、姉という立場をおろそかにしてしまった。妹には優しさを表現できていなかったと思います。

妹とは、20歳まで一緒に暮らしていました。私は性被害者としてどこか苛立ちがあったと思います。でも自分ではまったく気づいていなかった。苛立ちや怒りは深層心理によるものであり、本質的で根源的で欲求的なものに突き動かされ、時々怒りが妹に向かっていました。他にはその感情は向かっていませんでした。

今振り返ると、伝えたい感情、性被害を受けてなんともいえようにない感情を、親や誰かにわかって欲しかったのだと思います。

もっと明確に、自分の怒りの根源が理解できていたらよかったのにと思うことはあります。そうしたら怒りや苛立ちは少しは静まっていたと思います。そんなこと小学生には無理かもしれませんが、それでも早く理解できていたらと後悔ばかりです。

ですから大人や親が、子どもの些細な言動に気づいて欲しい。性被害は日本でも常態化しており、ただ当事者がいわないだけであり、性の悩みを持っておられる方がみえていないだけであり、現実には悩んでいる方はいるのです。

そして、性被害者の悩みの根源は、その時の状態ではなく、トラウマといわれるものではなく、自分の精神の動きを感じ取り、自覚したときが一番つらいというところです。ですからずっと性被害者として弱者のままになってしまいます。自分で自分を乗り越えなければならない現実は、それもまたとてもつらい現実です。私はあなたに同じ道をおすすめはしません。あなた自身でどちらかの道を選択していただきたい。

性被害者という弱者のままでいるか、もしくは自己の精神に向き合い、もうそこから逃れられるほどの過去の自分よりも強者になるか。そのどちらかです。

弱者は結局、誰かに救ってもらうのではなく、自分でそこから這い上がれる何かをみつけ、強い熱量で動くしかない。それが人として生きるということでもあります。

偽善なる愛の組織

偽善なる愛の組織

エホバの証人といえば「愛」が大きなテーマでした。神は愛であり、神と同じように私たち人間もその愛をあらわしていく。

愛とは、辛抱強く親切と、エホバの組織から教えられました。すべてのことに耐え、忍耐強さを示し、その力強い愛により希望を持つ。愛がなければ、ねたみや誇りやひがみや怒りなどが出てきてしまい、人を許すことができず、自分の感情や主張を押し通してしまう。自己中心的にならないよう愛を示すようにすすめられました。愛の定義を教えられました。

一見、いいことをいっているかもしれません。しかし、感情をおさえることなど人間にはできません。

私も人間関係で嫌な思いをすることはありました。そのたびに、エホバの証人の組織や聖書から教えられた「愛」により、辛抱強く忍耐し、許すことに徹底しました。その結果がうつ病でもあります。

私が嫌な思いをしている段階で、そこに愛はありません。

愛を教えられている組織で宗教2世は苦しんでもいます。私も子どもを苦しめてしまった。

この世に愛はあるのだろうかと思うこともあります。角度を変えれば愛に見えるものは、自分の欲求を満たすだけの「エゴ」でもあり、私が子どもに対して聖書の教育をしてきたことのように、当時は善と思っておこなってきたことは、実は「悪」でもある。

愛はこの世にないのかもしれない。それでも、人恋しくなるのが人間です。誰かの愛を求めるのが人間です。そして、人間に執着心がある限り、愛というテーマから逃れられないと確信しています。ですから、宗教では愛を利用して人をだまし、囲い込んでいるともいえます。