人間テーマ「悪魔と天使」

人間テーマ「悪魔と天使」

仏教にこのような教えがあります。

「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう、じじょうごい、ぜしょぶっきょう)

悪いことをするな
善いことをし
自分のこころをきよく保ち
これがもろもろの仏の教えなり

https://ja.wikipedia.org/wiki/七仏通誡偈

人により解説が若干異なりますが、要は、「悪いことをせず、よいことをおこないなさい」ということを伝えていると思います。

私はこの並びに注目しました。

先に悪をおこなうなというものですが、人は「悪」の要素が強いからこそ、先に諸悪莫作といわれているのではないでしょうか。ですからよいことをおこなえと伝えているのだと思います。

整体くららで主軸としておこなっている精神分析は、深層心理分析でもあります。

その深層心理を見つけ出すのに重要なキーワードとなるのは「闇の計画」です。人は知らないところでいつでもどこでも心の中で「闇の計画」を立てているのだと思います。人のこころには悪魔がいる。本当に厄介な生き物です。笑

私の「闇の計画」は、うつ病として10年間、薬漬けのヤク中として生きることでした。頭は働かず毎日死ぬことばかり考え、挙句の果てには自殺未遂です。人生、大損とばかり思っていましたが得もありました。疾病利益がありました。

人や社会から離れられる。
仕事や子育てを放棄できる。
常に家族と一緒にいることができる。
子どものそばにいられる。
病気が治らなければ弱者として気遣ってもらえる。
死にたいといえば家族に大事にしてもらえる。
など。

自分の悪魔像をあげ出したらキリがありません。自分が善人で天使でいい人だなんて、口が裂けてもいえません。笑

真っ黒い悪魔に直面することで、少しは自分の内に潜む悪魔もおとなしくなるのではないかと思います。闇の計画を立てることなく、意識的にそこにブレーキをかけれます。自分が大した人間ではないとわかれば、先の命を意識した行動ができるのではないでしょうか。

人の内にある、悪魔と天使、悪人と善人、悪性と善性は表裏一体です。そして、悪のほうが強力です。人は必ずそれを拒絶するからこそ要素的には強いと思いますし、根源的欲求により悪いほうをマネたり体現したりするのではないでしょうか。

人間心理として悪のほうが強く働くという意識を常に持ち、闇の計画を立てていないかと意識し、今だけよければ、自分さえよければという意識を薄くすることで、少しはマシな人間になれるのではないかと思います。

そして、前提として人のこころは清くないからこそ、清さを保ちなさいという教えは、理にかなった昔からの摂理なのだと思います。

エホバの証人と権利欲

エホバの証人と権利欲

終わりの日であるハルマゲドンまで、エホバの証人として神の僕としてエホバ神から離れなければ救われる。永遠の命が約束されていたからこそ、家族や社会から迫害されても忍耐できるのが、エホバの証人です。

神から選べれた民であり、特別な存在であり、救われて当然と思う。いわゆる選民思想のような感覚が構築されていました。これだけ社会から疎外され、迫害され、忍耐してきたのだから、エホバ神のご意志である、神の王国、楽園について日々、宣べ伝えてきたのだから、救われて当然という意識は、日に日に強まっていたのではないかと思います。

迫害という環境にいると、ムチを打たれたような状態でもあるので、人の「生」というものは強化され、永遠に生きたい、永遠に生きて当たり前の存在と思ってしまうのかもしれません。これだけ耐えてきたのだから、永遠の命という徳があってもいいのではないかと思っていたと思います。子どもを宗教で支配して傷つけていたというのに。

人というのは権利欲の塊です。権利を享受して当たり前と考え、子どもや先の世代のことよりも自分のことしか考えていません。どうやって簡単、お手軽に自己の欲望を叶えられるかと考え、自分がおこなうべきことはせず、義務みたいなものを果たそうとせず、挙げ句の果てには、自分の思うようにならなければ文句ばかりです。

そのような人間がはたして本当に選ばれた民なのでしょうか。

全世界の人の命をきづかい、救いたいと思っているのなら、ノアの箱船の扉が閉まる時に、箱船に乗る権利を譲ると思いますが、それができないのが人間です。どこまでも自分のことばかりであり、自分の権利の主張ばかりです。

宗教とは、自己に向きあるツールです。しかし、エホバの証人時はまったく自己に向き合っていませんでした。自分の醜い部分はみようとはしなかった。組織と聖書と神のことばをおこない、独自性がなく、みな同じがいいとロボットのように生き、その道からはみ出さないように生きていました。

エホバの証人だけではない。組織から離れてもやはり、受けて当たり前というのが人のこころには強く存在します。依存心からそうさせていると思います。調べない、考えない、すぐに答えを欲しいから、依存心が働く。

そして、日本ではすでに生きる権利は奪われはじめています。出生数減少、人口減少からもわかるように、生存権が脅かされているのです。

その同じ口で愛を語る

その同じ口で愛を語る

命を粗末に語る人間が、その同じ口で娘への愛を語るのですか。(薔薇のない花屋より引用)

人には一貫性のない言動はよくあります。

まさにエホバの証人もそうでした。きれいごとばかりでした。家族の生き方考え方を抑圧しながら、表面的で体裁主義で、見た目が良ければよしという感じでした。家の中では問題が起きているのに、奉仕では人々に愛と平和を語っていました。家と外で語る言葉と思いには一貫性がなく、子どもは、サタンが悪魔というよりも、目の前の親が本物の悪魔だと思っていたことは明確です。

挙げ句の果てに、言い訳の言葉は、「人間は不完全だから」です。アダムとエバの犯した罪を持ち出し、被害者づらをし、この世はサタンが支配しているとまでいい、一貫性がなくても、問題や間違いが起きても、「仕方ない」という。愛を学び、愛を宣べ伝える人々がそういうのです。なんと素晴らしい愛ある人なのでしょう。笑

エホバの証人に限ったことではない。
人間とは、愚かな生き物でしかない。

ですから、その愚かさで子どもや他者を傷つけないようにしたい。愚かさから逃れることができなくても、今よりまともな人間になれるよう、向上心を持って生きていたい。

私も以前は命を粗末にしていました。自殺未遂の経験があるからです。日々、死にたいと思い、口にしていたにも関わらず、エホバの証人として奉仕をし、愛と平和な楽園、永遠の命という希望を宣べ伝えていました。命を粗末に語るその口で愛を宣べ伝えていました。当時、一貫性がないことに気づいていなかった。嘘つきで一貫性のない自分のことがわかっていなかった。

せめて残りの人生は、自分の内面、精神もよく理解し、自覚し、生きていたい。その積み重ねが、人と人との関係性や、社会や日本が元気を取り戻せるのではないかと思っています。

エホバの証人をやめたあとの私の生き方

エホバの証人をやめたあとの私の生き方

この春、エホバの証人をやめて7年になります。

エホバの証人をやめたのは、子どもが親と宗教に嫌気がさして家出をしたのがきっかけでした。

家出をする前に子どもが恋愛をしました。相手が未信者のため、聖書のきまりで支配し、ふたりが付き合うことに対して条件をつけました。今では私たち夫婦がしてきたことに対して謝罪をし和解していますが、愚かな行動でした。人間の根底には「人を支配したい」という欲求が存在するということが、痛いほどよく理解できました。人間とは、悲しく虚しく醜い生き物です。人間の本質を自覚できたことで、これ以上、子どもを傷つけないようにと思えます。

エホバの証人をやめるきっかけは、人それぞれです。やめたいのにやめれない理由は、誰かの反応を意識しているからではないでしょうか。私も、子どもの家出と、夫がエホバの証人をやめたいといわなければ、やめていなかったと思います。家族にエホバの証人がいて、家族が悲しむ、家族が怒るなど、家族の反応がどのように出てくるかと想像すると、宗教をやめる勇気は持てなかった。子どもの自由性を奪っていました。犠牲にしてしまった。

宗教二世や宗教をやめたいと思っている人は、自分ひとりのことならやめたいと思えば、すぐにでもやめれると思います。それができないのは誰かの意見を重要視しているからではないでしょうか。誰かの感情を優先しているからではないでしょうか。その選択により、そもそも誰の人生を生きているのでしょうか。

私は私の人生を生きたい。

自分の人生を生きていなかったから、自分という確固とした意見や意思を持っていなかったから、宗教の教えにすがり、思想にすがり、宗教生活に子どもを巻き込んでしまいました。

そして、自分がどうして創価学会二世からエホバの証人一世になったのか、その理由を知ることにより、エホバの証人に戻ることはないという強い決断もできています。

今でも、記念式や大会の招待は家族や知人から連絡がきます。もしかしたらそのような連絡に対して、心が反応してしまう人もおられるでしょう。やっぱり戻ったほうがいいと、戻ったほうがざわついた心が楽になると、自分の想いを一番大事にせずに、他者の言葉を優先して、組織に戻られてしまう方もおられるでしょう。

そのときに重要な事柄は、「どうしてそのように反応してしまうのか」です。表面的な心の反応ではなく、無自覚の領域に存在する深層心理の何が反応しているか。その理解と自覚により、私は2度とエホバの証人の組織に戻ることはない。

エホバの証人の組織に属していたときは、現実逃避と反発心と防衛などさまざまな要素が影響して、エホバの証人という宗教を選択していました。そこには得と損もありました。エホバの証人の組織にいたということには明確な理由があり、それは宗教に属しているすべての人にも必ず理由があります。その理由がわかればあとは、自分自身がどう生きていくか、何を選択するか、それのみです。

そして、被害者意識をどれだけ捨てることができるか。そうすることで、宗教団体や宗教教理、親や家族など、それらの執着から逃れられる道へと歩んでいけます。

二元思考(二元論)による宗教脱会後の罪悪感と空虚感
https://seitai-kurara.com/archives/3715