21歳に嫁ぎ先の家族がエホバの証人でしたので、すぐに聖書研究がはじまり、数年後にバプテスマを受けました。そして、エホバの証人となりました。その時も、その後も、エホバの証人をやめようとは一度も考えていませんでした。宗教はどこか面倒でつまらないと思っていたのに続けていました。
聖書を勉強して約20年後、子どもが家出をしました。宗教も、宗教の教理を押し付けてくる親にもうんざりして、家を出てしまったのです。突然いなくなってしまいました。
それから、どうしてこうなってしまったのか、よいと思っていた教理を教えていたのに、どうしてその教えのために、残念な結果になってしまったのかなど、今まで考えもしなかったことを考え始めました。そもそもの理由を考え始めました。
そもそも、宗教はあまり好きではなく、教えで生き方を拘束されるのも好きではなく、自由に生きていたいというのが私という人間でした。ルールがとても苦痛だったのです。その苦痛を子どもにも与えていたことにやっと気づきました。本当に気づくのが遅すぎました。
そういうところにも気づきたくなかったんだと思います。気づいてしまうと家庭内に波風が立ってしまうため、気づかないようにしていました。見たくない現実があり、都合のよい現実を自ら作り出していました。
子どもが家出をして、その理由を考えて、自分にとってエホバの証人の教えとは何なのかと考え、それでも、やめようという選択は持てませんでした。
「もうやめたい」
そういったのは、夫のほうでした。夫の家庭にそもそもエホバの証人の家族がいたのに、そのつながりを切ったのは夫でした。きっと夫がその答えを出さなかったら、私はズルズルとエホバの証人を続けていたと思います。そう考えるとそれも残念で仕方ありません。自分で答えを出す勇気を持てなかったからです。
子どもの家出と、その家出によるその後の夫の決断が、エホバの証人をやめるきっかけとなりました。
エホバの証人や、他の宗教に属していて、やめたいと思っているかたは沢山おられると思います。宗教二世、三世の子どもたちは、特にそう思っているのではないでしょうか。
でも、私のようにやめる勇気が持てないかたのほうが多いと思います。
どうか、自分自身の本当の気持ちを隠さずに、親でも家族でもなく、自分の気持ちや感情を一番大事にして欲しい。誰かをがっかりさせる結果になったとしても、自分の人生は、誰かの人生であってはいけないと思います。今生きている人生はあなたのものです。
宗教をやっていることで、どこかつらい思いをしていたり、苦しく感じているのなら、尚更、誰かの決定に従い生きるのではなく、自分で納得のいく選択をしていただけたらいいなと思います。
エホバの証人をやめるとき、義理の母(エホバの証人)とたたかうことができました。できないことはできない、NOという意思表示やその想いを、初めて自分の言葉で伝えました。震えながら言葉を伝え、反発しました。実母と義母が重なり、投影し、エホバの証人をやめることで義母をがっかりさせたり、嫌われることへの恐怖があったのだと思います。
真の意味で宗教をやめたい、深層心理により、エホバの証人をやめたいと思えたときには、組織から抜け出る道が目の前にあらわれるのだと実感しています。