「誰も助けてくれない」のではなく、助けなどいらないと望んでいた

「誰も助けてくれない」のではなく、助けなどいらないと望んでいた

二つ前の記事で「誰も助けてはくれない」そう最初に書いていますが、助けてはくれないことを望んだのは私です。
人を信じることができず悲しみを抱いている人たちへ

人は望んだ現実、見たい現実しか見ないからです。常に人は被害者ではなく加害者です。自らその世界を作り出しています。

では、どうして「誰も助けてはくれない」ことを自ら望んだのか。

一つは、やはり、自分自身を過酷な状況に置いていたのだと思います。何かしらの罪悪があり、そうしていたのかもしれません。

もう一つは、人を信用したくないという現れでもあります。人を信じるということは、人を頼ってしまうということでもあります。当時の環境で人を頼って生きるということができない状態でした。家庭に親が不在のような状態でしたから、自分でなんとかしなくてはいけない。その強さを保つために、人を頼ること、信用することは、自ら遠ざけていたと思います。

最初にも書きましたが、人は自ら目の前にある現実を作り出しています。もし、人を信じたい、頼りたいと望んでいるのに、目の前の景色は違ったものでしたら、潜在的、深層心理ではそれを望んでいない自分がいます。そのことを認識、自覚するだけでも、見えている世界は変わってきたりもします。

祈りとは、意を宣る

祈りとは、意を宣る

最近、「意宣り」という言葉を知りました。
いのりとは平和を願ったり、病気が治りますようにと願ったり、感謝や悔い改めの「祈り」なのかなと思っていました。

「意を宣る」

意宣りとは、自分の意思を意図を宣言することだそうです。例えば「子どもたちが笑顔で平和に暮らせるよう、自分は〇〇します」と具体的な行動を宣言します。

お願いするだけの他力本願ではなく、自ら行動する態度で意宣り、能動的で力強さを感じますね。祈りと意宣りの2つがあっての「いのり」という方もおられます。

今年も後2週間。あなたはこの世界を見てどんな意宣りをしますか。

自ら行動しようと努力している団体、市民団体を知ってほしいです。
市民がつくる政治の会

人気ブログ記事
内海式精神構造分析法により闇に向き合いたい理由

親をがっかりさせたり親の期待を裏切ることに罪悪感を持っていませんか?

薬害がなくならない理由は、私には関係がないという「無関心」

ぞんざいな扱いをされる理由

国が滅ぶときの法則

宗教二世が組織から離れることができない理由