「生きていてごめんなさい」って思う方へ

「生きていてごめんなさい」って思う方へ

生きている罪悪感を持たれている方は、結構おられるのではないでしょうか。私も時々そういう感情に押しつぶされてしまいます。

しかし、それがどこからそうなっているのか理解できただけで、心が楽になっている自分もいます。

一つの理由は父親の死です。小学2年生に亡くなっているので、その時、初めての人の死に直面しました。何が起きたのか理解できていませんでしたが、少しずつ日が経っていくにつれ、悲しみが強くなりました。「どこに行ったの?」ってよく泣きながら考えていました。

家系図を作っていく内海式精神分析をしてみると、理由は他にもあり、親族の不慮の事故や自殺も生きている罪悪感を持ってしまう理由の一つであり、そして他にも理由はいろいろとあるのだと思います。

宗教の教理からの影響も罪悪感を持つ原因でもあります。宗教の教えが「善」で、人間は不完全な生き物なので「悪」と捉え、その考え方を植え付けてしまいます。幼ければ幼いほど、強く影響されてしまいます。二元思考(二元論)による宗教脱会後の罪悪感と空虚感

見えていない理由は他にも必ずあり、いろいろな理由が複合的に重なり合い、生きている罪悪感の塊になったのだと思います。

この感情はどうにもならないのですが、どこからのものかわかるだけで、思い詰める時間も減ってきました。

人間はみな不完全であり、完全な「善」をおこなうことは不可能であり、何かしらの罪を背負っています。生きているだけでこの地球も汚していますし。

ですから、「生きていてごめんなさい」と思っていても、自分には生きている価値がないと感じていても、それでも生きていて欲しいなと思います。もう自ら苦しめず、自分の感情を優先して欲しい。生きる権利はすべての人にあり、人は本来、生きていくために生まれ出たのだから。

内海式精神構造分析法により闇に向き合いたい理由

内海式精神構造分析法により闇に向き合いたい理由

内海聡医師が発案した、内海式精神構造分析法に興味を持つ方が増えてきました。あまり上手な動画ではありませんが、YouTube動画を作り、視聴される方が増えているので、やはり、内海式を活用して、自己に向き合いたい方は増えているのではないかと思います。

内海式精神構造分析法が理解できる書籍「心の絶対法則」を読むとわかるのですが、この精神分析法は、自己の闇に向き合う技法となります。どうして多くの方は「闇」に向き合いたいのでしょうか。どうしてつらくて苦しい作業をするのでしょうか。

私の場合は、

もう楽になりたかった
生きづらさの本当の理由を知りたかった
残りの人生、自分を大切にしたかった
自分らしく生きたいと思った
本当のことが知りたかった

このような答えが出ました。

皆さんはどうでしょうか?見えていない部分を掘り起こしていくことは恐怖でもあります。実際にクライアントの方で精神分析をするのが「怖い」とおっしゃっておられた方がいました。本当にそうだと思います。見えていないものを目の前で見て自覚することは、怖いことでもあります。

しかし、その恐怖を乗り越えて欲しい。一度、抱えていた闇を自覚して、そこから這い上がって欲しいです。強さが求められるかもしれませんが、自己の闇に向き合った先には、私は「自由」があると思っています。今まで、いろいろなことを重い蓋で、感情も言葉も封じてきた自分がいましたが、重い蓋を外して、それらを出せるようになった自分もいます。

選択するものも変わってきました。責任が伴いますが、自由に自分らしく生きていけます。私はそうなれたことで、時間はかかってしまいましたが、やっと本当の自分に戻れたと思います。自由を好む、いて座の要素を持った火のような特質を出せることができるようになりました。本来の特性を隠すことなく、誰から何をいわれてもいいというモチベーションで、生きることができるようになりました。本来の自分を生きることで、人は自信が持てるのだと実感しています。

人を信じることは一生ない

人を信じることは一生ない

性被害に限らず、誰でも強いトラウマがあれば、人を信じることはなかなかできないと思います。しかし、そもそも人を信用している人はいるのでしょうか。信用していないからこそ、様々な書類や契約書などは存在しているのだと思います。ビジネスなど駆け引きは存在します。

信じるということは私には難しいことですが、それでも孤立するのも苦しいです。人は人の温かみや空気など感じて生きていくのだと思います。もし、人に近づいて信用できない事柄が起きたとしたら、それは誰のせいでもない、自分自身が他者を信じきれなかったから。

生物として人間は特別でもないので、何かを信じるよりも、自分自身を信じることができればそれだけでいいのかなと思います。信じることも救うことができるのも、自分自身。直感を信じて生きていたい。

いつも私のそばにあった宗教とは何か

いつも私のそばにあった宗教とは何か

0歳から46歳まで宗教が常につきまとっていました。私にとっての宗教は「足かせ」のようでした。自ら望んで学んではいないし、いつも誰かを喜ばすための宗教でした。

宗教とは、

足かせ、決まりやルールで息苦しい、難しい、自分よりも他者を喜ばすツールなど、いろいろと解釈できます。

一般的な宗教の定義はこのようになっています。

宗教とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。
なお広辞苑では、「神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」、としている。
宗教(引用元 ウィキペディア)

宗教とは、神や仏といった超自然的な存在に対しての信仰や、それにかかわる営みを指す言葉です。神仏の教えを信じることで、安らぎを得たいとする心の働きのことです。
引用元 大人のためのbetterlife マガジン『enpark』

宗教にはもううんざりしていたのに、こうしてブログ記事として「宗教」を綴ることにも、必ず理由があります。きっと死ぬまで宗教に関係する事柄に携わるのだと思います。

どうして、嫌いだった宗教が常に隣にあるのか、自分自身の解釈としては、一つは「罰」なのかなと思います。または、人間の力や自然の力を超えた、神もしくは超越的なものを求めているのかもしれません。正しさの世界で生きたいために。そして、最近は、生きる「力」にもなっているのではないかと、そう感じてもいます。

自分自身の命の灯火は、幼い頃から弱かったのかもしれません。無気力になることは学生の頃から時々ありました。少し重い荷を背負って生きていたほうが「生きている」という実感が持てるのだと思います。

46年間、私にとっての宗教は受け身でしたが、今年50歳になり、人生後半は、宗教に能動的でありたいと思う自分もいます。宗教は個人的に学ぶのであれば、楽しいジャンルなのかもしれませんし、常に精神のことなど考えていることは、生きていく上では、よいことのように思えます。人は考えることをやめてしまった時が「死」なのですから。