私が所属していた、特に自ら選択して取り組んでいたエホバの証人という組織が、「カルト」なのかといわれると、私自身の解釈では、カルトと捉えることもできますし、そうでないともいえます。私から見た狭い景色からの解釈と、私以外の外側から見た景色では、答えは違うと思います。
では、カルトの定義とは何でしょうか。
カルトの定義
[カルト]ラテン語のcultus由来し、もともとは神々や英雄への「崇拝」を意味した。それが転じて熱狂的崇拝あるいはそれを行なう小集団をさすようになったのは、主として一九六〇年代以後である。…
ある集団をカルトと呼ぶ基準は、その集団の教義や儀礼が〈奇異〉に見えるかどうかであってはならない。あくまでその集団が、個人の自由と尊厳を侵害し、社会的に重大な弊害をもたらしているかどうかであるべきである。
引用元:カルトからの脱会と回復のための手引き《改訂版》
カルトの害悪
信教や思想信条の自由を侵害する
カルトの価値観から抜け出せなくなり、自律的な意思決定ができなくなる
構成員や一般の人々に対して献金等の名目で経済的収奪を行う
構成員に対して暴力や性的虐待を行う
病気が治るなどと称して生命や身体を害する
集団自殺や犯罪行為に及ぶ
カルト集団のために奉仕を強制される
児童の虐待やネグレクト、家族関係の断絶
引用元:消費者法ニュース 「カルト」とは何か
私たち夫婦は自らエホバの証人という宗教を選択して、信者になりました。ですから、自由が侵害されたことはないといえます。カルトの定義や害悪と自分自身の目にしてきたものを比べると、カルトではないといえますが、子どもの視点から見るとカルトになると思います。宗教二世三世の子どもたちにとっては、自由も奪われ、親の勝手な信仰心を押し付けられて、人権侵害ともいえます。社会的に何か悪いことはしていないとしても、子どもたちの選択を奪ってしまうのなら、カルトといわれても仕方ないといえます。人の見る視点で宗教組織は、カルトなのかカルトではないのか変わってくるのです。
カルトというと、事件を起こすような宗教がカルト宗教として扱われますが、決してそうではないということも認識する必要があります。
自分自身を善にしたいという願望のために、カルトと認めたくないという精神的ブロック生じますが、では、家族、伴侶、子どもたちが苦しんでいないのかという視点を持つと、思考の変化が生まれてきます。相手が苦しんでいるのなら、苦しめているのはやはり自分自身だという視点で物事を考えていただけたらと思います。