生きづらさには無価値観や存在否定が隠れている

生きづらさには無価値観や存在否定が隠れている

私自身、生きていていいのかという感覚はいつの頃からか持っていました。あまり気遣ってもらえない環境で育ち、存在自体をどこかで否定していたと思います。誰かにそうされていたというよりは、自分自身がそれを望んていたということが、精神分析をしてみて気づいた点です。

性被害ももちろん理由のひとつです。しかしそればかりではありません。中間子は特に兄弟の中では気遣ってもらえないという立ち位置です。家系図をみていくと、あらゆる連鎖によりさらに理由は顕在化してきます。

現代ではいじめやネグレクトなどの問題がありますが、親から気遣われていない状態なので、それらも無価値観を感じる要素になります。

幼少期から大事なことは親からの承認です。存在していていい、生きていていい、食べたり飲んだりしていい、気遣ってもらえる存在でいいという、自然の承認を子どもは得る必要があります。しかし、現代では親からの承認を得ることが難しい時代です。子育てもみたようにしかできないので、努力が必要な時代となりました。核家族化で家族が小家族でバラバラになりやすく、余裕も持てない時代です。

そのような家庭環境で育った大人がまた家族を持って、また同じような家庭環境を作り出すということが繰り返されています。

どこかで繰り返される今の状態を止めなければなりません。そのためには社会全体、政治を変えていくしかありません。

自分の生きづらさの理由に向き合い、政治や社会に関与していくことは労力がいりますが、それでも一人ひとりが取り組もうと努力したら、国も家庭環境も改善の余地はあると思います。子どもたちは子どもらしく生き、存在していていいという確固とした親からの承認を得ることができると思います。ですから、社会や政治や社会問題から逃げずに、自己の問題からも逃げずに向き合う人が増えていってほしい。そういう思いで、政治活動をしております。

弱者にみえるようで支配的な人

弱者にみえるようで支配的な人

人間はみな支配的でありコントロールするのが常である。

暴力夫がいるとして、妻は暴言や暴力などDVを受けている状態ですと、妻は弱者のようにみえるのが普通の視点です。しかし本当にそうでしょうか。人は多面性を持ち合わせていますので、100%弱者とは限りません。弱い立場のようで、支配的な人は何人も思い浮かびます。そして私自身もそうです。うつ病という病気をしており、嫁姑問題もあり、男尊女卑要素のある夫婦関係のなかで弱者のようにみえても、子どもを聖書で支配してきました。きっと日常のどこかの場面では男尊女卑はひっくり返り、時には夫も支配していることでしょう。

弱者のような振る舞いをしていたり、そういう言葉を発していたとしても、実は弱者ではないことの方が多い。弱さを武器にして、言い訳をして、取り繕っていたり、演じていたりする人はいます。よく観察したら簡単にわかることですが、人はみたいものしかみようとしません。ですから、自己の内面や、闇深さや、愚かさ醜さを知る精神分析は、あまり人気がないかもしれません。自己に向き合ったとしても、嫌な自分の姿をみようとしなければ、浅い向き合いかたになることでしょう。

弱さとは決して損ではない。そこから利益があるからこそ、弱者は弱者のままで、何も変わらない。弱さの裏に隠れている精神性に向き合い、自覚できた人は、強くなりたいと思うから生き方や考え方が変わっていき、人生の方向転換ができます。

人の人生は一瞬で変化させることは可能です。

この世に善も悪もないという視点を持つ

この世に善も悪もないという視点を持つ

人が病気になったとき、多くの人は治るということが「正しい」ととらえます。しかし、本当に治ることが正しいことなのでしょうか。

私のうつ病も治ることなく、10年間の闘病生活でした。その間、治らない状態により利益を得ていました。人間関係にうんざりして人から離れられることができました。エホバの証人の集会も奉仕も学ぶことも飽き飽きしていました。仕事も家事も育児も夫任せでした。幼少期に甘えられなかったため夫に甘えている状態でした。病人という弱者になることで気にかけてもらえました。人権を守っていたかもしれません。他にもいろいろと得となることは出てくると思います。

病気がイコール「悪」ではないことは経験上、よく理解できました。うつ病という病気になったという経験を通して、自己の内面に向き合うことの重要性を学べました。トラウマやコミュニケーションの問題などにも向き合い、納得のいく人生を歩むことができました。

この世に善も悪もないという視点を持つことは難しいかもしれません。病気になればそれを治したいと思うのが人間だからです。しかし、角度を変えるとみえているものの解釈は変わってきます。

人生において、善も悪もないという視点を持って、さまざまな事象を考察することは重要であり、自分の善と悪で人を支配することがないようにしたいと思います。特に自分の善悪の価値観で子どもたちが持っている価値観を変えないようにしたいですね。

みえていないものを想像する力

みえていないものを想像する力

最近では、人工知能であるAIにより、翻訳や文章、画像作成などができるようになりました。

SNSに興味深い投稿があり、AIは文章構築に行間を作れないため、人の前頭葉を亢進させ、知力が低下するという記事がありました。
https://x.com/koji_yamada_7/status/1901441797852938723

私は専門家ではないので、実際のところはわからないのですが、記事を読み進めていくとなんとなくですが知力が低下する意味は理解はできます。

目にみえている部分が多いと、目にみえない部分を想像する力や、それを表現する力が衰退するというような内容でした。

AIは活用することも時にはよいのかもしれません。情報が短時間で収集でき、知識を増やすことができるからです。しかし、活用しすぎてしまうと想像力や推察力や言葉を生み出す力は衰えてくることも想像できます。

人間ははるか昔の縄文時代の先住民と比べて、人間力は落ちていることは確かです。現代では病気も増え、精神疾患も増え、子育ても下手で、学習力も落ち、日本の状態をみただけでさまざまな分野で衰退しています。昔は何メートルも先の木の影に隠れている人の数がわかるほど、今では超能力扱いされてしまうレベルの知能を持ち合わせていたそうです。ですから言葉もあまり使われていなかったと思います。

人間は便利さには負けてしまいますが、面倒なことのなかにも大事なことが学べるということを認識できる人や、その価値観が持てる人がこれから増えたらいいなと思います。古臭い考え方ですが、そういう人が増えてほしい。