罪悪感と創価二世

罪悪感と創価二世

お久しぶりになってしまいました。

まだまだ自分自身が変わりたくても変われない現実があり、そう言っている時点で言い訳をしている自分が嫌になるときもあります。人間は悩みながら生きているんだとつくづく思う日々です。

変わりたいと思った人は、気づいたら変わっている状態です。何も言わなくても、何も掲げなくても、気づいたら変化している状態なんですよね。何度もそれは経験しました。うつが治ったときも。

今日は、罪悪感を常に持っている自分自身について綴りたいと思います。

人生、罪悪感を持ちながら生きてきました。創価学会の二世の子どもとして、兄弟三人の中で、一番、お題目をあげたり、座談会(集会)に参加してきたのも私です。

お題目をあげるときに仏壇の前で正座をして、手を合わせて唱えるのですが、これは「ごめんなさい」という状態でもあるんですよね。これが正座のメタファーです。メタファーとは、比喩であり、状態や言葉から陰に隠れている精神性がわかります。

正座のメタファーとしてごめんなさいの他には、降参や歩けない、願い、正しさ、忍耐、修行、罪の精算などもあるのかなと思います。

そうすると、創価学会員はすべて、大なり小なり「罪悪感」を持って生きているのではないかと思います。その要素が強いから「創価学会」という宗教に属しているのではないでしょうか。他の宗教でもよかったのに、多くの宗派の中で「創価学会」に属していることにも必ず意味があります。

私の罪悪感の一つは、父親を助けれなかったこと。

しかし、そればかりではないです。

家庭家族兄弟不和、家系の罪悪、祖母の死など、罪悪感が大きくなってしまいました。そして、父親と同じ時期に「死」を選択しようとしました。

宗教を始めるかたは、少なからず何かに対して「罪悪感」というものを持っているのだと思います。その「罪悪感」は、生まれてからの出来事よりも生まれる前の要素が大きく影響しているように感じます。

自分自身が「罪悪感」の根源を見れていないから宗教にはまり、周りの家族も同じように根源を自覚認識できていないから、その宗教から離れさせようと試みても互いに変化が訪れません。

罪悪感がどこから派生されたのかを見ていくためにも、内海式精神構造分析で家系図を作成していくことは有効な手段だと思います。

そして、今までの無意識の選択から意識的な選択へと変わっていきます。自ら罪悪感を手放したくなければそのまま。私はもう自分を傷つけたくもないので、意識的に罪悪感による苦しみの道からそれる選択ができるようになりました。自分の意見を自分自身で尊重できるようになりました。

■メタファー、言語医学について 言葉に隠れている感情や精神性を探す
https://youtu.be/yFoAQjNDvwI

日本再生のための法人会 会員募集中です

日本再生のための法人会 会員募集中です

認定セラピスト講座の師匠でもある内海聡医師が、この度、日本再生法人会を設立いたしました。
※2024年11月、団体名が変更されました。(現在は日本再生会)

日本再生のための異業種交流法人会は、日本の立て直しのため何をしていけばいいかなど、経営者が集まり交流会を通して話し合っていく場ともなります。

また、日本再生会の内容としては、定期的な交流会、様々な勉強会、LINEシステムによる交流と相談窓口があります。整体くららは、宗教家庭トラブル相談窓口係として参加しております。初回相談は無料となります。

整体くららも参加していますので、各種法人の代表取締役、取締役、役員、理事長や個人事業主様もご参加いただけましたら幸いです。

詳細は、日本再生会(旧団体名:日本再生法人会)ホームページをご確認ください。

日本再生会(旧団体名:日本再生法人会)

宗教に関する悩み相談も受付けております

宗教に関する悩み相談も受付けております

5月頃から始めた宗教に関するブログが30記事ほどになりましたので、ご参考になればと思います。整体くららでは、宗教に関する悩み相談も受付けております。

創価学会の家庭に生まれ、エホバの証人の家に嫁いで、今、宗教から離れて思うこと
https://seitai-kurara.com/archives/3705

二元思考(二元論)による宗教脱会後の罪悪感と空虚感
https://seitai-kurara.com/archives/3715

人は隠すものがあると持っているあらゆる力を失ってしまう
https://seitai-kurara.com/archives/3727

宗教、カルトに騙されやすい人
https://seitai-kurara.com/archives/3732

人はなぜ宗教にハマってしまうのか
https://seitai-kurara.com/archives/3736

エホバの証人の復活と平和という教理で足りない部分を埋めていた
https://seitai-kurara.com/archives/3761

いつも私のそばにあった宗教とは何か
https://seitai-kurara.com/archives/3782

エホバの証人と政治と秩序
https://seitai-kurara.com/archives/3796

宗教二世が組織から離れることができない理由
https://seitai-kurara.com/archives/3832

「生きていてごめんなさい」って思う方へ
https://seitai-kurara.com/archives/3797

エホバの証人とがん患者
https://seitai-kurara.com/archives/3887

教理をすべて信じていないのにやめなかった理由
https://seitai-kurara.com/archives/3909

宗教をやめたいと思った人の思考と行動
https://seitai-kurara.com/archives/3950

宗教の勧誘に大学生が狙われる理由
https://seitai-kurara.com/archives/3961

宗教脱退による内容証明は必要なのか
https://seitai-kurara.com/archives/3996

宗教にのめり込むのは誰のため?
https://seitai-kurara.com/archives/4077

家族が宗教をはじめたときに考えること
https://seitai-kurara.com/archives/4111

宗教で病気は治るのか
https://seitai-kurara.com/archives/4144

宗教人生から抜け出すことができたのはなぜか
https://seitai-kurara.com/archives/4132

カルトの定義
https://seitai-kurara.com/archives/4152

カルト宗教はあらゆる形態で潜んでいる
https://seitai-kurara.com/archives/4180

宗教にとどまる理由
https://seitai-kurara.com/archives/4195

布教活動を偽装する現代の宗教組織
https://seitai-kurara.com/archives/4205

自己啓発と宗教
https://seitai-kurara.com/archives/4215

宗教から逃れられない理由
https://seitai-kurara.com/archives/4237

九穴の糞袋、人間一生糞袋
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色情因縁は私たちの人生に影響があるのか
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エホバの証人をやめた理由
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宗教で騙されカモられる理由
https://seitai-kurara.com/archives/4332

死に向き合った一休さんのことば
https://seitai-kurara.com/archives/4338

罪悪感と創価二世
https://seitai-kurara.com/archives/4389

死に向き合った一休さんのことば

死に向き合った一休さんのことば

みなさんがよく知っておられる一休さんこと、「一休宗純」
一休宗純/Wikipedia

一人の信者から、家宝にしたいから「めでたい」ことばを書いてほしいと頼まれ、このように書いたそうです。

「親死 子死 孫死」

「死」ということばが並んでいたため、信者はかんかんに怒りました。しかし、一休宗純は、「孫死 子死 親死」のほうがめでたいのかと返答されました。

人の視点というのはそれぞれ違っていて、見る角度、とらえる角度が変わると、結果や答えも変化します。

現代では、「親死 子死 孫死」というように、老いた人から順番どおりに亡くなっていくことは難しい時代となりました。また、昔も小さな子どもたちのほうが病気にかかりやすく、亡くなる確率も高かったでしょう。若者の死がないということは喜ばしいことであり、上の世代から順番に亡くなっていくことは自然で、人として死を受け入れやすいことだと思います。ですから、「親死 子死 孫死」というのはめでたいことだというのが、一休宗純の教えです。

死について向き合い、語っておられ、人が嫌うことばをあえて伝えるというのは勇気がいることかもしれません。

それでも、忌み嫌われるようなことばでも、人々に考えてもらえることばを伝える人間になれたらいいなと思いました。そして、死についてあまり語られない現代ですが、人には必ず「死」は訪れます。生があれば死もある。死は誰もが経験することです。

だからこそ、本当は話し合ったり、話題にしたりと、考える機会があったほうがいいように思います。そして、そういう事柄を、子どもたちと話し合う時間が持てる社会になればと思います。

私も50歳を過ぎ、死について、自分なりの答えを見つけていきたいと思います。