私は本当に弱い人間なので、人に理解されたいという願望が強かったと思います。一言で言えば「かまってちゃん」でした。自分のことは自分が理解して、自分で満たしてあげて、自分で自分を大切に、自ら癒しとなれば、それほど理解を他者に求めなくてもいいのかもしれません。きっと理解を求めてもそれほど理解はされませんし、逆も然り。
内海氏のFBの投稿文から
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キチ○イ医が申すに最も人を精神的に病気たらしめる思想の一つは、「人に理解してほしい」という願望であるといえる。
またまた、と仰るなかれ。
これは患者と呼ばれる人々を観察する限り最も多い傾向なのである。
世界中どこの医療機関、医療施設であってもそれを満たそうとし、家族はそれを医療者たちに任せようとし、患者はそれを執拗に人々に求める。
この永遠に得られない解を求めようとするがゆえに、人々は精神的苦痛を深めていく。
はっきりいってこんなものは医療機関であったり、人が人に与える代物ではない。
誰かが誰かを理解するなどということはあり得ない。
要するに医療化思想の権化であり、後の権化であるがゆえに喰われる。
子供は何かあった時必ず親に聞いてほしいと思い発言する。
人に理解してほしいと願う人間ほどに、人を理解しようと試みることはない。
単純に言ってこの願望は幼児期に伴うものであって、真にいい意味での大人になっていない証拠である。
精神年齢というのは死語に近いがそれが低いということである。
そして理解してほしいと考える人々は、事実ではなく自己の都合を元に理解を深めさせようとする。
それは人をコントロールしようという統制概念が、根底にあるからに他ならない。
逆に言えば、幼少期にその願望が達せられていないから、大人になってその願望が強くなるとも言える。
ただこれはすべて真なりではない。
常に達せられてきたから、いつも達せられないと不満であるという成長の仕方も存在する。
本当に子育てというのは難しいものである。
あなたが自分の心を強くしたいと願うなら、人に理解されたいという願望を強くうち消そうとすることである。
それは主張するなということではない。
理解しあえる人は多くの説明がなくても理解できるのである。
私は私を理解した人を今までの中で一人も知らない。
それを無理に求めようとも思わないし、私の主張を相手が理解するかどうかは、その人が事実に忠実であるかどうかで決まるとしか思っていない。
やや宗教的だが執着や煩悩を生むということであろうか。