みえていないものを想像する力

みえていないものを想像する力

最近では、人工知能であるAIにより、翻訳や文章、画像作成などができるようになりました。

SNSに興味深い投稿があり、AIは文章構築に行間を作れないため、人の前頭葉を亢進させ、知力が低下するという記事がありました。
https://x.com/koji_yamada_7/status/1901441797852938723

私は専門家ではないので、実際のところはわからないのですが、記事を読み進めていくとなんとなくですが知力が低下する意味は理解はできます。

目にみえている部分が多いと、目にみえない部分を想像する力や、それを表現する力が衰退するというような内容でした。

AIは活用することも時にはよいのかもしれません。情報が短時間で収集でき、知識を増やすことができるからです。しかし、活用しすぎてしまうと想像力や推察力や言葉を生み出す力は衰えてくることも想像できます。

人間ははるか昔の縄文時代の先住民と比べて、人間力は落ちていることは確かです。現代では病気も増え、精神疾患も増え、子育ても下手で、学習力も落ち、日本の状態をみただけでさまざまな分野で衰退しています。昔は何メートルも先の木の影に隠れている人の数がわかるほど、今では超能力扱いされてしまうレベルの知能を持ち合わせていたそうです。ですから言葉もあまり使われていなかったと思います。

人間は便利さには負けてしまいますが、面倒なことのなかにも大事なことが学べるということを認識できる人や、その価値観が持てる人がこれから増えたらいいなと思います。古臭い考え方ですが、そういう人が増えてほしい。

髪の毛と力を失った裁き人

髪の毛と力を失った裁き人

エホバの証人時、学んでいた聖書の中では、一番、力を持ったサムソンという裁き人の話が出てきました。巨大な力の源は髪の毛にありました。それを知った悪者が、サムソンを捕らえ、髪の毛を切りました。そして、サムソンは力を失った。

髪にもメタファーがあり、隠れた精神性があります。

サムソンのように髪の毛を失う人は、力を落としているともいえます。また、自分がなくなっているともいえる。力とは生命力でもあるからです。

人は反省するときに坊主にしますが、髪を失うとは、懺悔や後悔という精神性も隠れています。恥じらいも含まれるのではないでしょうか。

聖書中の内容では、サムソンの髪の毛は再び生えてきて、力を取り戻したそうです。そして、何千人という悪者に反撃しました。聖書の神は愛ある神なので、いつもクレイジーな出来事に本当に愛があるかと疑問符でもあるのですが、メタファー的には学べる聖書でもあります。

髪の毛は単純にアンテナでもあると思います。情報でも気候でもいろんなものをキャッチしている。そして、頭脳という重要な部分を保護しています。

現代ではハゲは非常に増えていますが、自分というものがなく、アイデンティティの喪失でもあるのではないでしょうか。東洋医学から考えると髪の毛は腎臓膀胱経でもあります。何かしら対する恐れという感情に支配されているのかもしれません。

大事にしていないから大事にされない

大事にしていないから大事にされない

子どもが親のいうことを聞かないということは、親子の間ではよくある風景ですが、いうことを聞かない理由は必ずあります。そもそもいうことを聞かせようとする支配的な構図から見直す必要があるでしょう。子どものほうが親よりもすべてが若く、素直で、シンプルで、はるかに賢いからです。社会的体裁や忖度などのない感情から言動しています。

いうことを聞かないとしたら、親はすでに信用されていないということです。親子関係に限らず、組織や人間関係でも同様です。

人はひとりでは生きてはいけません。人間が生み出したシステムの中で生きていますし、水や太陽や空気など自然の恩恵にも預かりながら生きています。

自分の思いが相手に伝わっていないとは、あなたが相手を大事にしていないからではないでしょうか。ひとりでは生きていけないからこそ、独りよがりにならず、自己中心的にかたよらず、支配的にならず生きていく必要があります。

いうことを聞かないという相手の姿は、あなた自身でもあります。マイナス要素でもプラス要素のときでも、気になる相手は自分の鏡である。自分の内に火種があるからこそ、相手の言動が気になります。先にいうことを聞いていないのは「自分」という自覚が持てたとき、何かしらの変化は訪れるのではないでしょうか。大事にされていないと思ったとき、先に大事にしていないのはあなたではないでしょうか。

今、悩んでいる問題があり、怒りや悲しみなど出てくる感情があるとしたら、その根源はあなたから始まっている。

そして、大事にされたいのなら、まずは周囲の人々を大事にすることを心がけてみてください。

病気が治るということは本当によいことか

病気が治るということは本当によいことか

病気や症状には必ず原因があります。原因があり、理由があり、本質的な要因を探す必要があります。

私も以前はうつ病と診断されていました。10年間、向精神薬を服用していました。10年後、断薬してうつ病は治りました。

しかし、治ったという現実の幸せは得ることはできましたが、こころのどこかで治ってしまった罪悪感は常に感じています。治ったことで向き合わなければならない現実の問題や、過去の問題や、人間関係、コミュニケーションの問題やトラウマなど、向き合わなければならないことがありました。それらに向き合うことはうつ病のときよりも苦痛でした。

本当に治す覚悟があるか。そして、治療家は自分のエゴで治してはいけない。もし目の前で治っていたとしても、そこから離れれば、また患者は別の病気を作り出すかもしれません。

治療家側も患者やクライアントをなおすとはどういうことか、よく考えなければならないと思います。