一番近い人間に思ってることを言わないで、誰と本音で付き合うのか

一番近い人間に思ってることを言わないで、誰と本音で付き合うのか

私の好きなドラマ、「きのう何食べた?」の劇場版を観て、ズバズバ物を言う青年に、もう少し言葉を気をつけるようにとアドバイスしているシーンがあり、青年はこのセリフを投げかけていました。

「思ったことはまんま言ったほうがいいと思う、一番近い人間に思ってることを言わないで、誰と本音で付き合うんですか?」

私も思ったことを言葉に出してしまう人間でした。そして、周りの空気が悪くなると感じた時から少しずつ、思ったことを言わなくなりました。特に結婚してからは言葉を封じることは多かった。理解者が誰もいなかったからです。

子どもたちは素直だから、言いたいことは沢山あると思います。しかし、現代では、その素直ささえ出せない社会になってしまいました。

一番は親が悲しむからです。

親を悲しませるくらいなら、自分自身が言葉を封じていたほうが楽であり、平和が保てるし、家庭内も円満なのでしょう。しかし、その封じている言葉や感情が増えていけば、必ず心は疲弊していきます。そして、心は病んでしまい、精神疾患のような病名がつけられてしまいます。それは病気でも障害でもなく、理由があるというのに。

思ったことを言い合い、時にはケンカをしてもいいと思います。本音で語り合い、通じあえていたほうが、私はそのほうがいい。

嘘のない家族関係、本音を言い合える家庭があるからこそ、学校でも、社会に出てからも、強く逞しく生きていけるのだと思います。本音を言い合い、その本音を理解できる家族がそばにいるだけで、安心感や力は得られると思います。

体裁ばかりの言葉ではなく、本音を言い合える家庭、社会になったら、この国はもっと豊かになり、病気などの問題も減ってきます。

劇場版 きのう何食べた?

エホバの証人の復活と平和という教理で足りない部分を埋めていた

エホバの証人の復活と平和という教理で足りない部分を埋めていた

人は自分に足りないものを埋めようとする生き物です。ですから、ある人にとっては、その宗教の教えにより、虚しさや悲しさや絶望感などからくる心の隙間を埋めようとします。魅力的な教理なら、尚更、すぐに足りていなかった部分を埋めてくれます。

エホバの証人の魅力的な教理、インパクトのある教理は「平和な楽園」と「死者の復活」でした。
私にとって足りていなかった「平和」「復活」が目の前に現れ、心の隙間を埋め、そうすることで安定感も得られたのだと思います。

きっと幼少期の家庭内も不安定であり、結婚してからも不安定だったと思います。不安定な状況に陥った時こそ、宗教の教えによりその状況は「安定」へと変化していくのだと思います。偽りの安定ですが、一つの教えにより自分にとって軸ができるので、自分自身が安定する感じなのかもしれません。イメージとしては、乱れた道がまっすぐな道になったような感じです。

そして、私にとって、エホバの証人の教えで一番魅力的だったのは、「復活」でした。

父親のことは今でもほとんど思い出すことはできません。7歳までの思い出があるのに。きっと駄目な父親だったと思いますが、それでも会いたいとどこかでずっと思っていました。そして、祖母も突然の事故により亡くなっているので、死者の復活があるのなら、これはとても喜ばしい教理でした。

教理を信じたほうが都合がよかった。

自分自身が不安定さや、悲しみや、想いが重なり、宗教を信奉するという現実を自ら作り出したのだと思います。

家庭内の問題により安定さがないと、やはり、宗教に流されていくのだと感じました。不安定というものが、いかに宗教を自分自身や家庭内に取り込んでしまうのか、その力はとても強く働くのだと思います。

現代は人も家庭も社会も不安定です。

宗教トラブルは若者にまで及んでいます。

どれだけ、自分や家庭やその周りを安定させるのか、そうすることで宗教だけではなく、様々なトラブルは回避できるのではないでしょうか。

そして、その安定さは簡単には手に入らず、調べたり、考えたり、自ら答えを出したり、責任を負うなど、自立が求められます。宗教の教えをただ信じるだけの楽な道では、決して得られないのです。

絶望感を抱いて生きている人は多い

絶望感を抱いて生きている人は多い

相談を受け付けている者として、また、日常で人と接してみて思うことは、絶望感を持って生きている人はかなり多い。SNSなどネットを通じてもそう感じます。

私も小学生の頃には、どこか冷めた感覚で人を見ていました。そういう見方は少し寂しさもあったり、近しい人からは、穿った見方はよくないことも言われてきました。でも、私だけということでもなく、絶望的な感覚を持っている人は、今では珍しくもないほど、社会も家庭も人間関係もボロボロなのだと思います。

絶望感を持っていると苦しさも生まれます。一度、この世の中、社会は、滅んだほうがいいと思いながらも、そうなって欲しくはないという葛藤が生まれるからです。そして、私と同じように感じている方は結構いるのではと思います。

絶望的な状況でも、生きていかなければいけないのが、人間です。自分自身の力で社会も自分も何とかしなくてはいけません。誰も助けてはくれない。

絶望的な状況に陥ったとしても、自分自身で底辺から這い上がって欲しい。それが難しい状況だとしても、苦しさ以上のものを掲げて、それを力にして、生きて欲しいです。

性被害者として「気持ちが悪い」と思われることが一番嫌だった

性被害者として「気持ちが悪い」と思われることが一番嫌だった

自分自身が性被害者だと認識できたのは、社会人になって性を意識してからでした。それまでは何をされたのか理解ができていなかった。子どもの頃に性被害を受けていたのなら、私と同じような感覚を持っている人は少なからずおられるのではないでしょうか。

それからです。人を避けるようになったのは。自分自身が性被害者だと認識してから、ひと目を気にするようになり、少しずつ人から遠ざかっていきました。人が怖かった。今でもそれはありますし、どうにもならないのもわかっています。

そして、一番嫌だと思ったことは、「気持ちが悪い」と思われることでした。経験を話すことで、避けられるのではなく、「気持ちが悪い」と思われることが嫌でした。きっとそんなふうに思う方は少数だと思いますが。

本当は被害を受けたら、周りに話すことが一番大事なことだと思います。話して助けを求め、二度と被害が起きないように。

しかし、被害者はきっと話さない。

だから、この世の中からは性の虐待は無くならないし、苦しむ子どもたちはもっと増えていくでしょう。子どもたちは、NOを言うこともできず、そもそも何をされているのかさえわからない。

それでも、子どもたちが性被害を受けることがない社会にしていきたいと思い、身近なところで性被害があることを、大人や親が認識していて欲しいなと思い、私もこうして経験を開示しています。

もしかしたら、あなたの隣にいる人が性被害者なのかもしれません。そういう認識を持っていただけましたら、私の経験も生きてきます。どうか、苦しむ子どもたちが増えないよう、身近な子どもたちを守ってください。注意深く見守り、気にかけてあげてください。