人を信じることは一生ない

人を信じることは一生ない

性被害に限らず、誰でも強いトラウマがあれば、人を信じることはなかなかできないと思います。しかし、そもそも人を信用している人はいるのでしょうか。信用していないからこそ、様々な書類や契約書などは存在しているのだと思います。ビジネスなど駆け引きは存在します。

信じるということは私には難しいことですが、それでも孤立するのも苦しいです。人は人の温かみや空気など感じて生きていくのだと思います。もし、人に近づいて信用できない事柄が起きたとしたら、それは誰のせいでもない、自分自身が他者を信じきれなかったから。

生物として人間は特別でもないので、何かを信じるよりも、自分自身を信じることができればそれだけでいいのかなと思います。信じることも救うことができるのも、自分自身。直感を信じて生きていたい。

いつも私のそばにあった宗教とは何か

いつも私のそばにあった宗教とは何か

0歳から46歳まで宗教が常につきまとっていました。私にとっての宗教は「足かせ」のようでした。自ら望んで学んではいないし、いつも誰かを喜ばすための宗教でした。

宗教とは、

足かせ、決まりやルールで息苦しい、難しい、自分よりも他者を喜ばすツールなど、いろいろと解釈できます。

一般的な宗教の定義はこのようになっています。

宗教とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。
なお広辞苑では、「神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」、としている。
宗教(引用元 ウィキペディア)

宗教とは、神や仏といった超自然的な存在に対しての信仰や、それにかかわる営みを指す言葉です。神仏の教えを信じることで、安らぎを得たいとする心の働きのことです。
引用元 大人のためのbetterlife マガジン『enpark』

宗教にはもううんざりしていたのに、こうしてブログ記事として「宗教」を綴ることにも、必ず理由があります。きっと死ぬまで宗教に関係する事柄に携わるのだと思います。

どうして、嫌いだった宗教が常に隣にあるのか、自分自身の解釈としては、一つは「罰」なのかなと思います。または、人間の力や自然の力を超えた、神もしくは超越的なものを求めているのかもしれません。正しさの世界で生きたいために。そして、最近は、生きる「力」にもなっているのではないかと、そう感じてもいます。

自分自身の命の灯火は、幼い頃から弱かったのかもしれません。無気力になることは学生の頃から時々ありました。少し重い荷を背負って生きていたほうが「生きている」という実感が持てるのだと思います。

46年間、私にとっての宗教は受け身でしたが、今年50歳になり、人生後半は、宗教に能動的でありたいと思う自分もいます。宗教は個人的に学ぶのであれば、楽しいジャンルなのかもしれませんし、常に精神のことなど考えていることは、生きていく上では、よいことのように思えます。人は考えることをやめてしまった時が「死」なのですから。

一番近い人間に思ってることを言わないで、誰と本音で付き合うのか

一番近い人間に思ってることを言わないで、誰と本音で付き合うのか

私の好きなドラマ、「きのう何食べた?」の劇場版を観て、ズバズバ物を言う青年に、もう少し言葉を気をつけるようにとアドバイスしているシーンがあり、青年はこのセリフを投げかけていました。

「思ったことはまんま言ったほうがいいと思う、一番近い人間に思ってることを言わないで、誰と本音で付き合うんですか?」

私も思ったことを言葉に出してしまう人間でした。そして、周りの空気が悪くなると感じた時から少しずつ、思ったことを言わなくなりました。特に結婚してからは言葉を封じることは多かった。理解者が誰もいなかったからです。

子どもたちは素直だから、言いたいことは沢山あると思います。しかし、現代では、その素直ささえ出せない社会になってしまいました。

一番は親が悲しむからです。

親を悲しませるくらいなら、自分自身が言葉を封じていたほうが楽であり、平和が保てるし、家庭内も円満なのでしょう。しかし、その封じている言葉や感情が増えていけば、必ず心は疲弊していきます。そして、心は病んでしまい、精神疾患のような病名がつけられてしまいます。それは病気でも障害でもなく、理由があるというのに。

思ったことを言い合い、時にはケンカをしてもいいと思います。本音で語り合い、通じあえていたほうが、私はそのほうがいい。

嘘のない家族関係、本音を言い合える家庭があるからこそ、学校でも、社会に出てからも、強く逞しく生きていけるのだと思います。本音を言い合い、その本音を理解できる家族がそばにいるだけで、安心感や力は得られると思います。

体裁ばかりの言葉ではなく、本音を言い合える家庭、社会になったら、この国はもっと豊かになり、病気などの問題も減ってきます。

劇場版 きのう何食べた?

エホバの証人の復活と平和という教理で足りない部分を埋めていた

エホバの証人の復活と平和という教理で足りない部分を埋めていた

人は自分に足りないものを埋めようとする生き物です。ですから、ある人にとっては、その宗教の教えにより、虚しさや悲しさや絶望感などからくる心の隙間を埋めようとします。魅力的な教理なら、尚更、すぐに足りていなかった部分を埋めてくれます。

エホバの証人の魅力的な教理、インパクトのある教理は「平和な楽園」と「死者の復活」でした。
私にとって足りていなかった「平和」「復活」が目の前に現れ、心の隙間を埋め、そうすることで安定感も得られたのだと思います。

きっと幼少期の家庭内も不安定であり、結婚してからも不安定だったと思います。不安定な状況に陥った時こそ、宗教の教えによりその状況は「安定」へと変化していくのだと思います。偽りの安定ですが、一つの教えにより自分にとって軸ができるので、自分自身が安定する感じなのかもしれません。イメージとしては、乱れた道がまっすぐな道になったような感じです。

そして、私にとって、エホバの証人の教えで一番魅力的だったのは、「復活」でした。

父親のことは今でもほとんど思い出すことはできません。7歳までの思い出があるのに。きっと駄目な父親だったと思いますが、それでも会いたいとどこかでずっと思っていました。そして、祖母も突然の事故により亡くなっているので、死者の復活があるのなら、これはとても喜ばしい教理でした。

教理を信じたほうが都合がよかった。

自分自身が不安定さや、悲しみや、想いが重なり、宗教を信奉するという現実を自ら作り出したのだと思います。

家庭内の問題により安定さがないと、やはり、宗教に流されていくのだと感じました。不安定というものが、いかに宗教を自分自身や家庭内に取り込んでしまうのか、その力はとても強く働くのだと思います。

現代は人も家庭も社会も不安定です。

宗教トラブルは若者にまで及んでいます。

どれだけ、自分や家庭やその周りを安定させるのか、そうすることで宗教だけではなく、様々なトラブルは回避できるのではないでしょうか。

そして、その安定さは簡単には手に入らず、調べたり、考えたり、自ら答えを出したり、責任を負うなど、自立が求められます。宗教の教えをただ信じるだけの楽な道では、決して得られないのです。