不幸を選んでいるのは自分

不幸を選んでいるのは自分

人生あまりいいことはなかった。むしろ、不幸の連続だった。そう思われるかたは沢山おられるのではないでしょうか。私も実際そうでした。嫌なことが起きることが多く、いつの頃からか、どうしたら回避できるのかを考えるようになりました。

しかし、内海式精神構造分析を学んでいくにつれ、不幸をあえて選んでいるのは、自分自身でした。不幸の現実に常に置いておかなければいけないと、そういう荷を自ら負わせていました。

では、どうして自ら不幸を選択しているのか。その理由は何?と思われるのではないでしょうか。

一つの理由としては、生きている罪悪感からきています。父親が早くに亡くなり、子どもとしては、自分が何か悪いことをしてしまったから居なくなってしまったのではないか、自分のせいで父親は病気で亡くなったのではないかと、小さな子どもはそう考えます。幼少に経験したことは大人になっても引きずって生きていきます。

罪悪感だけではなく、子どもは親と同じようなことをして承認を得ようともします。母親は早くに夫を亡くしたので、苦労しました。人生、苦労の連続だったと思います。そういう姿を幼少から見ていますので、子どもは同じようにします。形が変わったとしても、結果、不幸や苦労を選択していきます。

何か問題があるときは、現実から考察していくよりも、過去にさかのぼって考察していくことをおすすめします。家系や親族をみて、何か目立つ出来事がないか、どんな事柄が起きていたのか、そこから子ども心で推察することで、今まで自覚できていなかった事柄が理解できてきます。見ようとしなかった景色が見えてきます。

子どもはいつでも親のことを気にかけています。いくら嫌いでも、いくら支配されていたとしてもそうします。だからこそジレンマが生じて生きづらさがうまれてしまいます。自分が何者なのかを見失って、何かを演じて、誰かを喜ばす人生を歩んでしまします。

そういうかたにこそ、内海式精神構造分析による家系図から、自分自身に向き合い、自分を知っていただきたいと思います。

ひきこもりや不登校者にやってはいけないこと

ひきこもりや不登校者にやってはいけないこと

それは、無理に外に連れ出すこと。私がうつだったとき、周りの人たちは、土を触れば病気も良くなる、外に出たら気分も良くなると、外に出るよう勧めてきました。とても鬱陶しかったです。笑

そもそも、外に出たくない理由があり、人と会話したくない理由があり、それをやる元気が出ない理由があるのです。それは、一番身近な「家庭内」にあるのです。

家族が病気になったとき、ひきこもりや不登校になったとき、すべての人は、その子だけに問題があるというでしょう。私たち家族には関係がない、この子の置かれている状況、学校や会社や社会に問題があると思うでしょう。本当に自分たちが問題だとは一ミリたりとも考えないのが「家族」です。

そんな私も、子どもが不登校になったとき、同じことをしてしまいました。本当に人間とは愚かな生き物です。常にコントロールするだけの生き物です。自分が嫌だと思っていたことを、不登校の子どもにしてしまいました。外に連れ出したり、子どもだけの問題だと思ってしまいました。問題の根源は私にあるというのに。夫婦や家庭環境にあるというのに。

ぜひ、ひきこもりや不登校の家族がいましたら、その子の問題とは捉えずに、自分自身に問題があるという視点で考えてみてください。そうしたら、見えるものは変化してきます。子どもがどうしてひきこもり、学校にいかないのか、その理由がわかってきます。

子どもは必ず、ひきこもりや不登校を利用して、メッセージを発しています。家族に何かを発しています。その声にならない言葉に耳を傾けてください。耳を傾けたら、聞こえていない声は必ず理解、自覚できます。すべての行動には理由があるのですから。

被害者意識の脱却から自分らしさがうまれる

被害者意識の脱却から自分らしさがうまれる

被害者になることは簡単です。私もいつでも被害者になれます。性被害者として、薬害にあったものとして、陰湿ないじめもありました。人は必ず被害者になれる場面があるはずです。しかし、本当に被害者なのでしょうか。もしかしたら、あなたが望んでいたことかもしれません。

内海式精神構造分析で精神分析をしていくとき、現実は自分自身が作り出しているという視点で分析していきます。そういう視点からではないと、問題の根源にたどりつけないからです。問題は問題のまま、生き方も考え方も変わらないままです。実際、私も被害者意識で生きていたときは、まったく問題は解決されませんでした。生きづらさを抱えたまま、誰かに合わせるだけの人生でした。自分らしさをまったく出せていない人生でした。

しかし、すべては自分が作り出している、被害者とは真逆の加害者であり、確信犯であり、そういう視点で物事をとらえたときに、今までどうして生きづらい人生だったのか、息苦しい人生だったのかという答えを見つけることができました。

それは、とても苦しいことです。つらい作業です。

でも、もう、誰のせいとか言いたくはない。私の人生は私そのものであり、誰にコントロールされているものではないからです。そういうのはもう嫌だからです。残りの人生も、支配もコントロールもされない人生を送りたい。

被害者意識を持つことには利益があります。疾病利益があるのです。自分のアイデンティティを守ることもできます。醜さを見ずにすみます。周りから優しくされます。自分は悪くないといえます。いろいろと都合がいいのです。だからみな、被害者をやめられません。

強さが求められますが、ぜひ、被害者意識から脱却してほしい。そうしたら、この国は、少しは改善の見込みが生まれるのかもしれません。

内海式精神構造分析と先祖供養の関係性

内海式精神構造分析と先祖供養の関係性

内海式精神構造分析では家系図を作成していき、そこから何を封じてきたのか、何を演じてきたのか、何を見て、何を見てこなかったのか、どんなフラクタル構図があるのか、どんなジレンマやメタファーが隠れているのかなど見ていきます。ですから、先祖が必ず関係してきます。先人が何をおこなってきたのか、どの点が同じで、どの点が違うのか、それを見ていき、そこから持っているあらゆる問題の根源を見つけていきます。

そうすると、「先祖供養したほうがいいのか」と思うかたも、少なからずいるのではないかと思います。

私はお墓参りには今も行っていませんし、内海式精神構造分析法を発案された、内海聡医師からもそのようにいわれたことは一度もありません。先祖供養しようがしまいが、問題をよい方向へ向かわせるためには、あまり関係はないと思っています。

先祖供養、先祖崇拝したければそれでいい。
したくないほど憎しみがあるのならしなくてもいい。

供養よりも大事なことは、前の歴史に向き合う、つまり、自己に向き合い、今まで気づくことがなかった事柄を自覚することが一番重要です。

自分自身がどこからどのようなつながりを持って存在し始めたのか、自分自身が一体「何者」なのかということを知ることが大切だと思っています。生まれた時と幼少期の環境も知ることが大事ですが、自分が存在する前に何が起きたのか、どういう家系だったのかと、掘り起こしたり、想像したり、向き合う作業が重要です。すべてはつながっており、私たち人間は同じことをしてしまうからです。形は変わっていても同じようなことをします。

家系図は情報が多ければ多いほど推察の材料となりますが、パターンがある程度わかれば、それほど情報がなくても分析できます。特に私のような生きづらさを感じているかたや、死が関係するような病気、ずっと精神薬を服用されているかたは、内海式精神構造分析で自分自身を知るのも、一つの手法だと思います。この分析法だけでなく、自己に向き合う姿勢が持てたら、それは誰かのせいにするのではなく、自分自身に問題の根源があるという認識が持てていますので、そういうかたは、問題に対する解釈が進んでいきます。