性被害者として「気持ちが悪い」と思われることが一番嫌だった

性被害者として「気持ちが悪い」と思われることが一番嫌だった

自分自身が性被害者だと認識できたのは、社会人になって性を意識してからでした。それまでは何をされたのか理解ができていなかった。子どもの頃に性被害を受けていたのなら、私と同じような感覚を持っている人は少なからずおられるのではないでしょうか。

それからです。人を避けるようになったのは。自分自身が性被害者だと認識してから、ひと目を気にするようになり、少しずつ人から遠ざかっていきました。人が怖かった。今でもそれはありますし、どうにもならないのもわかっています。

そして、一番嫌だと思ったことは、「気持ちが悪い」と思われることでした。経験を話すことで、避けられるのではなく、「気持ちが悪い」と思われることが嫌でした。きっとそんなふうに思う方は少数だと思いますが。

本当は被害を受けたら、周りに話すことが一番大事なことだと思います。話して助けを求め、二度と被害が起きないように。

しかし、被害者はきっと話さない。

だから、この世の中からは性の虐待は無くならないし、苦しむ子どもたちはもっと増えていくでしょう。子どもたちは、NOを言うこともできず、そもそも何をされているのかさえわからない。

それでも、子どもたちが性被害を受けることがない社会にしていきたいと思い、身近なところで性被害があることを、大人や親が認識していて欲しいなと思い、私もこうして経験を開示しています。

もしかしたら、あなたの隣にいる人が性被害者なのかもしれません。そういう認識を持っていただけましたら、私の経験も生きてきます。どうか、苦しむ子どもたちが増えないよう、身近な子どもたちを守ってください。注意深く見守り、気にかけてあげてください。

創価学会の家庭に生まれ、エホバの証人の家に嫁いで、今、宗教から離れて思うこと

創価学会の家庭に生まれ、エホバの証人の家に嫁いで、今、宗教から離れて思うこと

生まれてから創価学会。そして、嫁ぎ先がエホバの証人。結婚してから聖書を学び、数年後、水のバプテスマを受けてエホバの証人になりました。

宗教から脱退して今年の春で4年が経ち、今、伝えたいことは、宗教の教えは人を支配できるということ。そして、宗教はいくら家族、子どもでも強要してはいけないということです。

私たち夫婦は、子どもに良い教え、この聖書の教えを守らないと楽園に入れないといい、聖書の基準を押しつけてしまいました。

例えば、国旗掲揚をしてはいけない、国歌を歌ってはいけない、誕生日を祝ってはいけない、世の人(エホバの証人以外の人)とは深く関わってはいけない、大学には進学しないほうがいい、簡素な暮らしをし、恋人や結婚相手は聖書を学んでいる人でなければいけないなど。多くの決まりごとありました。そうしなければ命に関わると恐怖や不安を与え、一方的に私たちが学び出した宗教を、子どもに押しつけてしまいました。

それの何が悪いのか。命が関係しているのだから当たり前のことをしているだけだ。

そう、現役のエホバの証人でしたら言ってくると思います。

私は、子どもの命の権利を親が持っていいのか?命は自分自身なのだから、その重さも価値も、その子自身が責任を負うものであり、その権利を親が、支配、コントロールしてはいけないんだと強く思いました。子どもに対してしてきたすべてのことに後悔しました。申し訳ないと思いました。

教えや基準は規律性が維持できて、いいことでもありますが、それと同時に自由さが奪われてしまいます。これこそ表裏一体であり、だからこそ、宗教や教理というものは、時として人を傷つけてしまうということも、認識しておくべきです。そういうことに無知であり、ただただ良い教えだと受容するばかりで、いろいろなことを考えていませんでした。子どもが苦しんでいることに気づくことができませんでした。

そもそも、人にはみな、信教の自由が法で定められています。

信教の自由とは、宗教を信じ、信じない自由のことで、憲法20条1項前段において、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と規定されています。(引用元:https://www.yokohama-roadlaw.com/glossary/cat4/post_138.html )
※参照資料:法律資格合格応援サイト 日本国憲法の話

選択の自由さえも、子どもから奪っていたことに気づけなかったことを自覚した時は、とてもつらかったです。子どもに対して酷いことをしてきてしまいました。少しでも、もう後悔のないように、考えることができる親、大人でありたいと思います。宗教で苦しんでいる、特に二世の子どもたちに何か伝えることができればと思い、宗教に関する悩みや事柄など、発信していけたらいいなと思い、今後もブログで綴っていきます。

善と悪は表裏一体

善と悪は表裏一体

ある兄弟がいて、兄が下の兄弟をいじめていたとします。そのいじめの主な原因は、いつもそばにいた大好きなおばあちゃんを、下の兄弟に取られてしまったことでした。

ある日、兄はおばあちゃんと大げんかをして、それからはおばあちゃんとはほとんど口を聞かなくなり、兄弟、家族にも距離を取るようになりました。

これだけの情報では、いじめた兄が「悪い」ととらえられてしまいますが、裏を返すと、下の兄弟に大好きなおばあちゃんという存在をあげたことにもなります。そうするためにけんかをしたと、とらえることもできます。

実は下の兄弟を思っての行動だったとも解釈ができるのです。素直な行動が取れなかったのだと思います。そして、おばあちゃんを取られてしまったから、その悲しさが強く出て、いじめに発展してしまったと思います。本当は自らの行動だったのに。優しさも隠れているのに。

子どもは両親がけんかをしていると、なんとか平和を保とうとして異常な行動をしてしまうこともあります。外で友だちとけんかをして騒ぎを起こしたり、物を盗んだり、病気になって家庭内を忙しくさせたりなど。普通のとらえ方でしたら「困らせている子」といわれてしまいますが、実は両親の不仲を良くするためにあえて自分自身を「悪」にしてしまいます。子どもは大人や親よりもとても賢く、周りをよくみています。そして一生懸命、自分の持っている100%の力を発揮して、全力でその不仲に対処しようとしています。問題を解決しようとしているのです。

善と悪は表裏一体。

まさに、これらの例はそういえるのではないでしょうか。

もしかしたら、しかし、もしかしたらではなく確実に、子どもの異常と思える行動には、意味があってそうなっています。それを、「症状」「病気」ととらえ、精神の異常ととらえ、発達障害や精神の障害と病名のようなものをつけ、向精神薬を飲ませているのが現代です。本当に悲しいことだと思います。子どもたちのこころを読み取れない大人ばかりになってしまいました。そして、私もそうでした。この内海式精神分析を学んで、以前よりは、子どもの本当の声のようなものがわかるようになりましたが、まだ、親としても大人としても、人間としても未熟です。

どうか、これ以上、子どもたちが薬や無駄な医療で苦しまない社会になればと思います。そうしなければ、この国は本当に、確実に、復活のない亡国となります。

人は見たり聞いたりしたものだけで選択してはいない

人は見たり聞いたりしたものだけで選択してはいない

人は、見たり聞いたりしたものだけで選択してはいません。むしろ認識自覚していないものから、様々なものを選択しているといえます。

どうしてそういえるのか。

私は性被害者であり、子どもには絶対に性被害者になってほしくないと思うのが親です。いくら毒親だとしても、親ならそう願うと思います。そしてなるべくリスクを伴わない状況を作り出しました。

エホバの証人の家に嫁いだ時、エホバの証人の教理はほとんど知りませんでした。クリスマスと誕生日を祝わないことくらいでした。

エホバの証人の教えには、結婚するまで性関係を持ってはいけないというものがありました。親としても子どもとしても、被害を受けない受けさせない抑止力になったと思います。

内海式精神構造分析法を学んでわかったことは、自分自身が認識も自覚もしていないものが要因となって、いろいろな選択をしているということです。そして、エホバの証人という宗教を選択したのも、偶然ではなく必然であり、絶対に子どもを守るというミッションのようなものを持ちながら、この家に嫁いだのだと思います。うつという病気を作り出して、なるべく子どものそばにいたと思います。

すべて目の前で起きていることは、自分自身が作り出している世界であり、現実であり、だからこそ、それを変えることは自分自身でしか変えることはできません。病気でもあらゆる問題でも、治したり変化させたりするのは、あなた自身です。