恋愛の法則性を知って恋愛上手になる

恋愛の法則性を知って恋愛上手になる

あなたは今まで、何回恋愛をしましたか?

私は付き合った人の数は少ないほうだと思います。20歳で結婚したということもひとつの理由でもあります。

付き合った相手のパターンから、自分のことを知ることはできます。私の恋愛は、すべての男性からふられました。笑)男と付き合いたくないというあらわれでもあります。そして、男を傷つけるより傷つきたいという、厄介な特性でもあります。笑

その理由としては、傷つくことに愛着を持っているからです。

では、なぜ愛着を持つのか。

それは、幼少期や古い親族の歴史のパターンから、その理由の要素となる情報を、さまざまな視点から知ることができます。私の場合は、女性が家庭内で傷つく立場だったというのが愛着(執着)を持つひとつの理由です。もちろん他にも理由はあります。

古い歴史から引き継がれている繰り返しのパターンから抜け出したとき、少しはあなたが望む恋愛の形へと近づけるのかもしれません。今、恋愛中のかたがおられましたら、好きな人とよりよい恋愛もできることでしょう。

しかし、傷つくことへの愛着は相当なエネルギーを持っています。人は負のエネルギーにこそ愛着を持つ。その負の力に勝てるかどうかは、あなた自身です。

生まれたときの情報から、家庭環境、親子関係にいたるまで、自分のあらゆる姿を知ることが、恋愛上手になる鍵となります。

人の目が気になるのはなぜか

人の目が気になるのはなぜか

最近、身の回りのものを整理していたら古い日記が出てきました。2014年の向精神薬断薬後の日記です。

断薬以前までは、自分のこころや精神や内面については、ほぼ向き合っていなかった。人とのコミュニケーションが苦手で、人を避けていたのは理解はできていました。そこから生きづらさは生まれていたことも、なんとなくは理解できていた。でも、根本の原因は気づけていませんでした。そもそも根深い原因があるだなんて思ってもいなかったし、因果の法則さえ知らなかった。

日記には書かれていた内容のひとつは、「人の目を気にすることを手放したい」でした。

人の目を気にすることをやめるとしたら、それは自分の特性や幼少期の家庭環境や親子関係、もっと古い家の伝承など、あらゆる自己に向き合わないと難しいかもしれない。高い目標があれば、人の目など気にせずにどんどんと前に進めると思いますが、なかなかすべての人間が持てるとも限らない。

そうすると、「どうして人の目など気になるのか」という問いに対する、原因と理由を探すしか方法はない。

私の場合は出自をはじめ、トラウマなどいろいろと隠したいものがありました。ですから余計に人の目が気になっていた。性被害ということも悟られないようにしていた部分はあります。隠そうとすればするほど震えている感覚はある。今、体の震えは以前よりは少なくなってきています。

人の目をみれないというのも、人間が怖いということだと思います。人は一瞬で悪魔にも天使にもなれる。その目を見なければ何もされないという防御として、人の目をみないのかもしれません。単純に親の悲しむ目や、怒っている目などみたくなかったともいえます。

「目は口ほどにものをいう」という言葉があるように、目の訴えは強烈に語りかけられ、こころに残ります。精神からの強烈な想いとなり、周波数がその目を作り出していると思います。

私は精神分析や相性数秘術などによる占いにより、さまざまな自分の姿を知ることができて、人の目はあまり気にならなくなっています。自分のやりたいようにやり、その評価と責任は自分にしかできない。そして、人の目など気にしている時間と人生は、それほど長く続かないということを、今、大事にしているテーマでもあります。

今日という日は2度とこない。次はないからこそ、悔いのない生き方を。

ヤク中ジャンキー

ヤク中ジャンキー

2004年。免疫が下がり細菌感染をはじめさまざまな症状が出てきたため、内科や婦人科など精密検査をしましたが、異常なし。出ている症状に対して理由が知りたくて、病名(原因)がほしかったので、最終的に心療内科へ行きました。

結果は「うつ病」

早い段階で抗うつ薬の処方が始まりました。

当時の私に、何をいったら通院も向精神薬もやめれたのか考えることはあります。

病名が与えられたことでホッとしていた自分がいますが、不快な症状の原因がうつ病ではなかったですし、人間関係の問題があったことは確かです。でも、現実をみなかった。

もしかしたら何をいっても無駄だったかもしれない。

精神分析の観点からいえば、闇の計画がすでに働いているので、無駄なことはわかっています。人は見たい現実を自ら作り出す。

でも、もしも、あなたの状態は「ヤク中ジャンキーです」といえば、何か気づきはあったかもしれない。心の病といわれているうつ病。本当に向精神薬を飲み、ヤク中にまでなって、心は治るものなのかと考えたのではないか。

精神の問題は自己の精神でしか治せない。生き方や考え方により人間関係の問題が起き、その問題により苦しんでいるからである。向精神薬で治すという選択は本当に正しいことなのかと、考えるきっかけはいくらでもあったのに、そのきっかけとなったのは、優しい言葉などではない。癒す言葉でもない。

ヤク中ジャンキーに近い言葉だった。

「精神医学とは何か」という答えが私の生き方考え方を変え、私の状態は私が作っていた現実であり、誰のせいでもない。すべては因果応報であり、根本の問題は私の内(内的要因)にあるという現実を突きつけられたことで、ヤク中ジャンキーという現実を直視することができました。

何も言い返す言葉はなかった。愚かとしかいいようがありませんでした。

つらい現実と問題とトラウマなど、今まで避けて見ないようにしてきた自己の精神に直面しなければならないが、命が消えゆく前に、目が覚めてよかった。私にとって向精神薬とは、廃人となり、思考を眠らせる薬でした。

生きるとは「反抗」

生きるとは「反抗」

人には必ず死が訪れる。人がこの世に生まれたら死に向かう道からは逃れられない。

では、人はどうして死にゆく人生を生きているのか。生きなければならないのか。そもそもどうして生きているのか。生きている意味は何か。

死にゆく人生の中で生きているからこそ、「生きる」ということを考えるときは必ずやってくる。

小説家、哲学者である、アルベール・カミュは、生きることについてこのようにいわれています。

「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」(シーシュポスの神話より引用)

アルベール・カミュは、生きるべきか、死ぬべきかという問いに対し、生きることを選んでいます。意味がないともいえる「生きる」ということから逃げるのではなく、反抗の精神で生き抜くことを伝えていました。

私たち人間は生きる意味を教えられず、理解せず、生きている状態です。生まれた後は、ただ死にゆく存在です。不条理の世界で生きています。その不条理のため、人生を歩んでいる途中でどうしたらいいのかわからなくなってしまうときはやってくると思います。わからない事柄の連続で、人は生きるという意味を見出すことから逃避する。考えることから逃避しています。

不条理の世界で生きていくことは苦痛が生じても何ら不思議はありません。生きるというテーマを持ちづらい世界だからです。人間がなぜ存在しているのかもわからず、なぜ地球が存在しているのかもわからず、わからない世界で生きるということが何かということが想像しづらいからです。

では、不条理の世界でどう生きるとよいのでしょうか。

私は必死に生きるしかないと思います。理想や目標を持ち、それはすぐに叶えられる目標ではなく、必死になれる何かを掲げることで、不条理な世界でも人は前を向いて生きていける。この世に正解はなく、人それぞれ答えは違うのですから。

生きるというのは、答えのないこの不条理な世界に対しての反抗でもあり、死にゆくだけの自分とそれでも生きていたいという自分とのたたかいでもあり、自分が心で思うことに正直になることなのかもしれません。

真面目に考えることを放棄せず、生きることを放棄せず、運命を変化させる勇気と力を自らの生命力で生み出していきたい。そこに宗教団体は無縁です。自ら思想を生み出す努力をしないからです。

そして、生きることと真逆の戦争や虐待が起きている人類社会で、生きるという明確な理由は「ない」ということが前提で、私たち人間は存在しているのかもしれません。その乖離した世界、矛盾した世界に存在しているからこそ、「生きることは何か」という意味を見出すことは重要ではないでしょうか。

※意図的な不条理の事象は存在します。この世の社会構造として、心理学、優生学、悪魔崇拝が意図的な不条理の背後にあることを覚えておいていただきたい。