人の目が気になるのはなぜか

人の目が気になるのはなぜか

最近、身の回りのものを整理していたら古い日記が出てきました。2014年の向精神薬断薬後の日記です。

断薬以前までは、自分のこころや精神や内面については、ほぼ向き合っていなかった。人とのコミュニケーションが苦手で、人を避けていたのは理解はできていました。そこから生きづらさは生まれていたことも、なんとなくは理解できていた。でも、根本の原因は気づけていませんでした。そもそも根深い原因があるだなんて思ってもいなかったし、因果の法則さえ知らなかった。

日記には書かれていた内容のひとつは、「人の目を気にすることを手放したい」でした。

人の目を気にすることをやめるとしたら、それは自分の特性や幼少期の家庭環境や親子関係、もっと古い家の伝承など、あらゆる自己に向き合わないと難しいかもしれない。高い目標があれば、人の目など気にせずにどんどんと前に進めると思いますが、なかなかすべての人間が持てるとも限らない。

そうすると、「どうして人の目など気になるのか」という問いに対する、原因と理由を探すしか方法はない。

私の場合は出自をはじめ、トラウマなどいろいろと隠したいものがありました。ですから余計に人の目が気になっていた。性被害ということも悟られないようにしていた部分はあります。隠そうとすればするほど震えている感覚はある。今、体の震えは以前よりは少なくなってきています。

人の目をみれないというのも、人間が怖いということだと思います。人は一瞬で悪魔にも天使にもなれる。その目を見なければ何もされないという防御として、人の目をみないのかもしれません。単純に親の悲しむ目や、怒っている目などみたくなかったともいえます。

「目は口ほどにものをいう」という言葉があるように、目の訴えは強烈に語りかけられ、こころに残ります。精神からの強烈な想いとなり、周波数がその目を作り出していると思います。

私は精神分析や相性数秘術などによる占いにより、さまざまな自分の姿を知ることができて、人の目はあまり気にならなくなっています。自分のやりたいようにやり、その評価と責任は自分にしかできない。そして、人の目など気にしている時間と人生は、それほど長く続かないということを、今、大事にしているテーマでもあります。

今日という日は2度とこない。次はないからこそ、悔いのない生き方を。

精神分析で重要な認知の転換

精神分析で重要な認知の転換

内海式精神構造分析という精神分析法、精神療法をご存知でしょうか。

「内海式精神構造分析法」とは、自分が一体何者で何をしでかしているのか、自分にどんな嘘をついているのか、どんな仮面をかぶり人形を演じているのか、いかに自分が嘘をついていることを自覚していないか、いかに過去のトラウマを封じ込めながらそれに縛られて生きているかということを知るための技法であり、「心の絶対法則」が自分にどう働いているかを観察する方法である。(心の絶対法則から引用)
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精神分析では家系図を作成して、さまざまな視点から潜在意識、表面化していない意識である、「深層心理」を探していきます。今まで自覚できていなかった感情を表面化させていきます。深層心理に問題の根源があるからです。根源的、本質的、摂理的、生存欲求的な意味合いがそこにはあり、その周波数が病気や状態の周波数を作り出しています。認知の歪みにより問題は起きています。

性被害者にとって、自分が悪いことをしたのではないかと思うかたはいるのではないでしょうか。私もそうでした。ですから相手を恨むことは一度もなかった。他にも理由はあると思います。しかし、本来なら憎むことが人としての感情の反応です。

宗教2世の子どもたちも同様です。親を憎めないから苦しんでいる。組織から離れることができず、親から離れることができず、嫌々ながらもずるずるとその状態から離れない。そしてそれは周波数となり病という形を作り出していく。

憎んでいたり、恨んでいたり、怒りを持つことは何も悪くはありません。深層心理の何かしらの理由によりそれを封じてしまうから、問題は問題のままであり、その問題は心の奥底に沈み隠され、目を向けず、新たな道を進む力さえ生み出せない。

宗教2世も虐待された人たちも、感情を出さないようにしている人のほうが多いと思います。一番は親が悲しむからではないでしょうか。周囲に迷惑をかけてはいけないと思っているからではないでしょうか。自分を低めるなど他にも理由はあります。そして、その連続により、本来の自分の感情がよくわからなくなる。自分の姿がよくわからなくなり、人生は誰かの人生の道となり迷路のようになってしまうのかもしれません。

感情をおさえている自分の姿を知ることができ、また、恨んでも憎んでもいいという認知の転換により、以前よりは楽に生きられるようになりました。喜怒哀楽を持っているのが人間なのですから。

何もなかったかのように振る舞う子どもたち

何もなかったかのように振る舞う子どもたち

大人が性被害にあったとき、性に対する知識や経験により、何が起きたのかを把握することはできると思います。しかし、子どもが性被害にあったとき、全体像を把握することは困難ではないでしょうか。私もsexがどういうものかというのは、実際に経験しなければわかりませんでした。ですから性被害者と認識できたのは大人になってからです。小学生の私には、当時は不快という認識しか持てなかった。その不快さを隠そうと必死だったと思います。なかったことにしようとしていたんだと思います。しかし、体は素直です。その頃から手の震えが出てきていました。少しの物音で不安を感じ、もし何か起きたときに、どう防御したらよいのかと子どもながらに必死でした。

事実を認めたくない。

起きた出来事を事実ではないことにし、認めないことで、自己の心や精神が崩れないよう防御していた状態でした。今思うと忘れようとしていた感覚はあります。ですから誰にもいわなかったですし、いってしまうと現実を受け入れてしまわなければなりません。それは小さな子どもには耐えきれない現実だと思います。

そこから偽りの自分、演技をする自分が生み出されてしまいますが、それでも危機的な状況の場合は、精神の防衛システムのようなものは働きますし、人には必ず備わっている心のシステムだと思います。

当時の私にもしも誰かが「なにかあったの?」と聞かれても、起きた出来事は話さなかったと思います。すでに自分で自分を守る体制に入っているからです。必死に防衛しているからです。

しかし、信頼している人になら話すかもしれません。それは人により違いが生じると思います。

小さな子どもの性被害の対応は、無理に話させるよりも話すまで待つほうがよいのだと思います。大人でも同様ですが、子どものほうが強力な防衛反応により自ら言葉に出さないかもしれない。

現代では社会的に、幼少から性教育を勧めていますが、私は行き過ぎた性教育には反対です。いくら知識があったとしても、教育したとしても、その状況になれば小さな子どもでは無力です。嫌だという一言さえ声に出せない。

それよりも性被害が起きないよう、そういう社会やまちづくりに力をいれることのほうが先ではないでしょうか。性の問題だけではなくあらゆる問題において、大人たちの行動と結果を出すことが先ではないでしょうか。

性被害者と怒り

性被害者と怒り

人には必ず後悔はあると思います。もちろん私にもあります。子どもの特異性や生き方や考え方を、宗教で抑えてしまいました。父親祖母を助けれなかった後悔もあります。そして、姉という立場をおろそかにしてしまった。妹には優しさを表現できていなかったと思います。

妹とは、20歳まで一緒に暮らしていました。私は性被害者としてどこか苛立ちがあったと思います。でも自分ではまったく気づいていなかった。苛立ちや怒りは深層心理によるものであり、本質的で根源的で欲求的なものに突き動かされ、時々怒りが妹に向かっていました。他にはその感情は向かっていませんでした。

今振り返ると、伝えたい感情、性被害を受けてなんともいえようにない感情を、親や誰かにわかって欲しかったのだと思います。

もっと明確に、自分の怒りの根源が理解できていたらよかったのにと思うことはあります。そうしたら怒りや苛立ちは少しは静まっていたと思います。そんなこと小学生には無理かもしれませんが、それでも早く理解できていたらと後悔ばかりです。

ですから大人や親が、子どもの些細な言動に気づいて欲しい。性被害は日本でも常態化しており、ただ当事者がいわないだけであり、性の悩みを持っておられる方がみえていないだけであり、現実には悩んでいる方はいるのです。

そして、性被害者の悩みの根源は、その時の状態ではなく、トラウマといわれるものではなく、自分の精神の動きを感じ取り、自覚したときが一番つらいというところです。ですからずっと性被害者として弱者のままになってしまいます。自分で自分を乗り越えなければならない現実は、それもまたとてもつらい現実です。私はあなたに同じ道をおすすめはしません。あなた自身でどちらかの道を選択していただきたい。

性被害者という弱者のままでいるか、もしくは自己の精神に向き合い、もうそこから逃れられるほどの過去の自分よりも強者になるか。そのどちらかです。

弱者は結局、誰かに救ってもらうのではなく、自分でそこから這い上がれる何かをみつけ、強い熱量で動くしかない。それが人として生きるということでもあります。