周囲を気にかけてしまう性被害者

周囲を気にかけてしまう性被害者

「性暴力被害は、子供の心に深いトラウマを残す。『心配をかけたくない』という子供なりの優しさや気遣いから、大丈夫そうに振る舞っていても、本人は苦しみ続けているケースは多い。」引用元 読売新聞 教員からわいせつ行為、命絶った女子生徒の母「慕う気持ち利用…許せぬ」

被害者の立場なのに、自分が悪いと罪悪感も持ってしまう性被害者の方もいます。私もそうでしたし、この記事の女子生徒さんも、私と同じ感覚だったと思います。

人はつらい出来事が起きて、それが100%被害者の立場でも、人を完全に恨むことはできない。だからその葛藤で苦しむのだと思います。他者を悪にするよりも自分自身を悪にしてしまいます。

そして、子どもが一番に考えていることは、親のことです。親が平和で平穏であるよう願っています。それが崩れるくらいなら、自己犠牲を払ってでも親を守り続けます。

ですから、子どもの表面的な言葉や行動だけではなく、裏に隠れている感情に気づける大人が増えて欲しい。そうしたら、必然と性被害、性暴力は減ってきます。気にかけてもらえている存在、大切にされている存在だと認識できるだけで、それだけで、子どもは自分を傷つけることはしなくなるからです。そうすることで、この国の子どもたちを大事にしていることになり、それは、国を存続させることにもなります。

「生きていてごめんなさい」って思う方へ

「生きていてごめんなさい」って思う方へ

生きている罪悪感を持たれている方は、結構おられるのではないでしょうか。私も時々そういう感情に押しつぶされてしまいます。

しかし、それがどこからそうなっているのか理解できただけで、心が楽になっている自分もいます。

一つの理由は父親の死です。小学2年生に亡くなっているので、その時、初めての人の死に直面しました。何が起きたのか理解できていませんでしたが、少しずつ日が経っていくにつれ、悲しみが強くなりました。「どこに行ったの?」ってよく泣きながら考えていました。

家系図を作っていく内海式精神分析をしてみると、理由は他にもあり、親族の不慮の事故や自殺も生きている罪悪感を持ってしまう理由の一つであり、そして他にも理由はいろいろとあるのだと思います。

宗教の教理からの影響も罪悪感を持つ原因でもあります。宗教の教えが「善」で、人間は不完全な生き物なので「悪」と捉え、その考え方を植え付けてしまいます。幼ければ幼いほど、強く影響されてしまいます。二元思考(二元論)による宗教脱会後の罪悪感と空虚感

見えていない理由は他にも必ずあり、いろいろな理由が複合的に重なり合い、生きている罪悪感の塊になったのだと思います。

この感情はどうにもならないのですが、どこからのものかわかるだけで、思い詰める時間も減ってきました。

人間はみな不完全であり、完全な「善」をおこなうことは不可能であり、何かしらの罪を背負っています。生きているだけでこの地球も汚していますし。

ですから、「生きていてごめんなさい」と思っていても、自分には生きている価値がないと感じていても、それでも生きていて欲しいなと思います。もう自ら苦しめず、自分の感情を優先して欲しい。生きる権利はすべての人にあり、人は本来、生きていくために生まれ出たのだから。

二元思考(二元論)による宗教脱会後の罪悪感と空虚感

二元思考(二元論)による宗教脱会後の罪悪感と空虚感

最近、ある宗教の二世の子の書籍を読みました。その中には、「集会にはもういかない」と親に伝えたことや、その組織から離れ、親に嫌われることをしてしまう様子が描かれていました。教えに反することや親に嫌われる行動を取ることで、宗教から完全に離れようとしていました。

しかし、最後の一文には「虚しい」と、そう書かれていました。

小さな頃から宗教の教えに触れ、受容していたので、裏切ることは少なからず罪悪感を持つのかもしれません。そして反発して、教えに反する行動を取ったものの、現状は変わらず、教えが全身にインプットされているので、罪悪感はもっと募っていくのでしょう。

これは二元思考(二元論)が関係しています。

教理が「善」
自分自身、不完全な人間が「悪」

こう教えられるのが宗教です。ですから、常に自分自身が「悪」になっているため、罪悪感はいつも抱えており、それは、人によって強弱があるように思えます。

私も0歳から創価学会でしたので、何かしらの教理を教えられてきたと思います。でも、ほとんど覚えていません。覚えているのは平和が掲げられていたことくらいです。だから、その平和から少しでも逸脱すると「罪悪感」が出てきてしまうのだと思います。

そして、宗教二世の子どもたちもそうなのだと思います。個人差はあると思いますが、罪悪感を持っている二世の子たちは多いと聞いています。自分自身が「悪」ととらえているのです。

私もいつの頃からか幸せになってはいけないなど「罪悪感」を強く持つようになりました。一つの理由は、父親が亡くなったことによるものだと精神分析をして認識できましたが、宗教による「二元思考」が影響していることには最近、自覚できました。

きっとこの著者も私と同じような感覚なのではないかと思います。そして、私の場合は、同じことを実の子どもにもしてきてしまったと、後悔の毎日です。子どもが苦しんでいなければと思いますが、人の心は表面には出ないので、見えないところで苦しんでいるのかもしれません。親として謝り、こうして綴って思いなど残しておくことしかできません。

宗教二世の子どもたちがもし、このブログにたどり着いたのなら、自分自身を「悪」にしていないか考えてもらえたらと思います。そして、「悪」にしている根本の理由を探し出していってほしいなと思います。

私も学生の頃から罪悪感を持って生きていました。結婚してそれは強く出るようになり、うつ病、自殺未遂など経験してきました。常に傷つけている状態でした。

その理由が、宗教の教え、幼少の環境、生き方考え方、アダルトチルドレン像、そして、自分自身では認識も自覚もできていない、家の伝承でした。もっと理由はあるのかもしれません。

自己に向き合うことはとても苦しい作業ですが、一番、重要視していただきたいのが、「周りのせいにしない」ということです。被害者意識を持ってしまうと、善と悪でしか考えることができず、自分自身を善とし、正しくしてしまいます。(悪にする必要もありません。)すべては自分で選択してきたのに。私もエホバの証人の家に嫁ぎ、うつ病になり、精神科に行き、精神薬を服用し、ひきこもり、人との関係を遮断し、自殺未遂に至った事柄は、どれも誰かにそうされたのではなく、自分自身で選んできたことです。誰にも文句はいえない。

ぜひ、被害者意識を持たずに自己に向き合っていただけましたら、このブログ記事にも意味があるのだと思います。

参考書籍

人間であり、生物であり、動物なのだから、心臓が動いている限り生きていくしかない

人間であり、生物であり、動物なのだから、心臓が動いている限り生きていくしかない

現代では社会は複雑になり、誰でも必ずつらい経験を生きていく中でしていると思います。私も家族との突然の別れがあったり、その他にもよい想い出よりもつらい経験のほうが先に思い浮かびます。生きていることにさえ罪悪感を持ってしまうこともあります。そして、全体的にも病気は増え、疾患も増え、子どもたちの精神疾患も増え、精神薬の投薬も増え、子どもたちの自殺も増えているので、私のような経験はもう珍しくもなんともない時代となりました。

弱者になり自らそのレッテルを貼ってしまうと、生きる力は必ず落ちてしまいます。私も自らうつ病になることをしてきてしまいました。10年間、治してもいない薬を飲んでいたとはそういうことです。肉体的にも精神的にも廃人のようでした。なんの不思議もなく疑いもなく、いつか治してくれると信じて、向精神薬を服用していました。心療内科に受診していました。

弱さを認めることができた時、愚かな行動を取ってきてしまったと自覚できた時、生きる強さは自ずと生まれてくるものだと私は思います。実際、今、私は生きていますし、いくらつらい経験があったり弱さがあったとしても、生きていくしかないと思っています。与えられた命だと思って全うしようと、生きる強さを得ようと努力しています。結局は命に関しては誰も助けてはくれないのです。自分自身で命を保ち、生きる力を持たなければ、この時代を、病んでいる世界を生きてはいけない。

悲しみやつらさや様々なエピソードがあったとしても、あなたが今よりも強く生きられますよう願っています。