東洋医学と花粉症

東洋医学と花粉症

2月から3月までと、スギ花粉の飛散量が増える季節になりました。今では、3人に1人が何かしらの症状が出ており、地域によっては3人に2人のところもあります。私も少なからず症状は出ていますが、以前のように薬は飲まなくて済んでいます。

主な症状は、鼻水、鼻づまり、目のかゆみ、涙目やくしゃみといったところでしょうか。私の過去の症状としては、のどや耳の奥のかゆみや、まぶたの炎症もありました。とてもつらく、薬なしの生活では成り立たなかった状態でした。

症状からみたとき、ほとんどの状態は「泣いている」状態でもあります。そして、東洋医学の視点から考えると、鼻ものども呼吸する部位あり、肺大腸系の炎症ととらえます。五臓と五志の関係性でいえば、そこから推察する感情や精神は「悲しみ」「罪悪感」です。

症状の原因はすべてが精神ではありません。

症状や病気の原因は、
1. 精神、人間関係が、35%
2. 医原病、薬害が、30~35%
3. 食、社会毒、栄養が、25%
4. 構造が、5%
5. その他が、1%

このようにさまざまな要因があることを前提として考えます。

スギ花粉はそもそも林業の問題もあり、安い木材が輸入されることで国産木材が活用されず、スギなどの人工林は手入れされず放置されている状態でもあります。また、社会毒により腸が炎症しているのが現代人です。どの社会毒が炎症を起こしているのかを突き止める必要もあります。食事が影響していることもあり、そのすべてを見直したりすることで、症状に変化は起きてくると思います。

精神だけで考えてはいけないのですが、私自身、うつ病時には、現実とわからない悲しみを抱えて生きていたんだと、振り返るとそう思います。自己の精神に向き合う姿勢になってから花粉症の症状はよくなり、ステロイド剤など強い薬を手放せました。

薬は毒として作用しているだけであり、人体や精神を傷つけているともいえるので、罰している状態でもあるということを覚えておいていただければと思います。

生きるとは「反抗」

生きるとは「反抗」

人には必ず死が訪れる。人がこの世に生まれたら死に向かう道からは逃れられない。

では、人はどうして死にゆく人生を生きているのか。生きなければならないのか。そもそもどうして生きているのか。生きている意味は何か。

死にゆく人生の中で生きているからこそ、「生きる」ということを考えるときは必ずやってくる。

小説家、哲学者である、アルベール・カミュは、生きることについてこのようにいわれています。

「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」(シーシュポスの神話より引用)

アルベール・カミュは、生きるべきか、死ぬべきかという問いに対し、生きることを選んでいます。意味がないともいえる「生きる」ということから逃げるのではなく、反抗の精神で生き抜くことを伝えていました。

私たち人間は生きる意味を教えられず、理解せず、生きている状態です。生まれた後は、ただ死にゆく存在です。不条理の世界で生きています。その不条理のため、人生を歩んでいる途中でどうしたらいいのかわからなくなってしまうときはやってくると思います。わからない事柄の連続で、人は生きるという意味を見出すことから逃避する。考えることから逃避しています。

不条理の世界で生きていくことは苦痛が生じても何ら不思議はありません。生きるというテーマを持ちづらい世界だからです。人間がなぜ存在しているのかもわからず、なぜ地球が存在しているのかもわからず、わからない世界で生きるということが何かということが想像しづらいからです。

では、不条理の世界でどう生きるとよいのでしょうか。

私は必死に生きるしかないと思います。理想や目標を持ち、それはすぐに叶えられる目標ではなく、必死になれる何かを掲げることで、不条理な世界でも人は前を向いて生きていける。この世に正解はなく、人それぞれ答えは違うのですから。

生きるというのは、答えのないこの不条理な世界に対しての反抗でもあり、死にゆくだけの自分とそれでも生きていたいという自分とのたたかいでもあり、自分が心で思うことに正直になることなのかもしれません。

真面目に考えることを放棄せず、生きることを放棄せず、運命を変化させる勇気と力を自らの生命力で生み出していきたい。そこに宗教団体は無縁です。自ら思想を生み出す努力をしないからです。

そして、生きることと真逆の戦争や虐待が起きている人類社会で、生きるという明確な理由は「ない」ということが前提で、私たち人間は存在しているのかもしれません。その乖離した世界、矛盾した世界に存在しているからこそ、「生きることは何か」という意味を見出すことは重要ではないでしょうか。

※意図的な不条理の事象は存在します。この世の社会構造として、心理学、優生学、悪魔崇拝が意図的な不条理の背後にあることを覚えておいていただきたい。

ひきこもり歴10年

ひきこもり歴10年

結婚後、子どもの成長とともにひきこもりがちになった10年間。簡単にいえば、宗教による集会が嫌で、奉仕が嫌で、嘘が多い人間関係が嫌で、嫁姑問題もどうにもならず、人との交流も嫌だった。子育ても放棄している状態でした。いいたいことをいわず、ひきこもることで家族に反発していました。さまざまな深層心理の感情により、ひきこもることを選択していました。

そして、心身ともに退行している状態でした。

夫に家事、育児、仕事とお任せの日々でした。適当に毎日を過ごし、私がいなくても家庭内はまわっていく。家では存在も薄れていました。

過去のこと、ひきこもりの状態を文字にすればするほど恥ずかしくなります。自分が一番、その状態により利益を得ていたからです。望んでいたからです。

人が退行することにも意味はあると思います。めんどうな人間になり、注意を自分に向いてもらうためでもありますが、精神を守っていたともいえます。どうにもならない現実により、退行という手段で心的苦痛から逃れていたともいえる。波風を立てず、偽りの平和を得るための退行でしたが、今考えると幼稚な手段でした。

内閣府が2023年3月31日に公表した推計値によると、ひきこもりは15~64歳で146万人いる、日本の現状。

自信がない、甘えたい、コミュニケーションの問題という理由だけではない。さまざまな要因が重なりあってのひきこもりです。ひきこもりにも得と損があり、それは周りにいる家族も同様です。

何もなかったかのように振る舞う子どもたち

何もなかったかのように振る舞う子どもたち

大人が性被害にあったとき、性に対する知識や経験により、何が起きたのかを把握することはできると思います。しかし、子どもが性被害にあったとき、全体像を把握することは困難ではないでしょうか。私もsexがどういうものかというのは、実際に経験しなければわかりませんでした。ですから性被害者と認識できたのは大人になってからです。小学生の私には、当時は不快という認識しか持てなかった。その不快さを隠そうと必死だったと思います。なかったことにしようとしていたんだと思います。しかし、体は素直です。その頃から手の震えが出てきていました。少しの物音で不安を感じ、もし何か起きたときに、どう防御したらよいのかと子どもながらに必死でした。

事実を認めたくない。

起きた出来事を事実ではないことにし、認めないことで、自己の心や精神が崩れないよう防御していた状態でした。今思うと忘れようとしていた感覚はあります。ですから誰にもいわなかったですし、いってしまうと現実を受け入れてしまわなければなりません。それは小さな子どもには耐えきれない現実だと思います。

そこから偽りの自分、演技をする自分が生み出されてしまいますが、それでも危機的な状況の場合は、精神の防衛システムのようなものは働きますし、人には必ず備わっている心のシステムだと思います。

当時の私にもしも誰かが「なにかあったの?」と聞かれても、起きた出来事は話さなかったと思います。すでに自分で自分を守る体制に入っているからです。必死に防衛しているからです。

しかし、信頼している人になら話すかもしれません。それは人により違いが生じると思います。

小さな子どもの性被害の対応は、無理に話させるよりも話すまで待つほうがよいのだと思います。大人でも同様ですが、子どものほうが強力な防衛反応により自ら言葉に出さないかもしれない。

現代では社会的に、幼少から性教育を勧めていますが、私は行き過ぎた性教育には反対です。いくら知識があったとしても、教育したとしても、その状況になれば小さな子どもでは無力です。嫌だという一言さえ声に出せない。

それよりも性被害が起きないよう、そういう社会やまちづくりに力をいれることのほうが先ではないでしょうか。性の問題だけではなくあらゆる問題において、大人たちの行動と結果を出すことが先ではないでしょうか。