宗教の勧誘に大学生が狙われる理由

宗教の勧誘に大学生が狙われる理由

宗教問題に関して調べてみると、近年では、大学生が標的となっている「キャンパスカルト」により、大学内外で宗教の勧誘が増えているそうです。

社会問題化した宗教団体「摂理」がコロナ禍で有名大学で勧誘を活発化 SNSを駆使した巧妙な手口 AERA dot.
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「キリスト教」を名乗る団体について 青山学院大学

どうして若者たちが狙われるのか。

その理由の一つは、若さゆえに人を信用しやすく、断ることができないからではないでしょうか。守られ過ぎた環境のため社会性も低く、少し仲がよくなると疑うことなく、人を信用してしまうのかもしれません。悩みを持っていたら、ほんの僅かな心の隙間に入り込みやすくなり、その対応が心地よくもなります。または、プライドが高いために、まさか自分が騙されるはずはないと思っているのかもしれませんし、向上心や承認欲求も関係してくると思います。

そして、重要な点は、勧誘されることを本人が望んでいるという視点を持つことです。もし、お子さんが宗教の勧誘を受け、家を出ていくなり、家から離れて宗教にハマっていくのなら、それさえも望んでいるのはあなたなのです。受け入れがたいことですが、双方、その状態を望んでいるという視点をぜひ持って欲しい。

では、なぜ、勧誘されることを若者たちが望んでしまうのか。宗教にハマるのは一種の「逃避」です。現実問題からの逃避であったり、家庭内の居心地の悪さからの逃避であったり、親の支配からの逃避だったりもします。ぜひ、子どもたちが何から逃げたいのか考えてみてください。

そして、もし、宗教の勧誘により苦しんでいたり、つらい思いをされているのなら、「罪悪」も関係してきます。現在の罪悪というよりも、過去や全く認識のできていない罪悪です。罪悪に限らず、どうしてそういう行動を取っているのか、その理由は、内海式精神構造分析法により見つけ出すことができます。

ほんの少しの視点の違いで、宗教の勧誘の原因が違ったものになりますので、本当に解決させたいのなら、自分のどこに問題があるのかと、外側ではなく内側に問うて考えてくださればと思います。私もそうしてうつ病も、人間関係の問題も、トラウマ問題、宗教問題も、自分なりに向き合い自己解決してきましたので、この考え方がご参考になればと思います。

ぞんざいな扱いをされる理由

ぞんざいな扱いをされる理由

大切に接して欲しいと思う気持ちは誰でも持っています。私も雑な対応ではなく、優しく接して欲しいと思っていますが、どこかで雑に扱って欲しい、大切にされると逆に悪く感じる、ぞんざいな扱いのほうが楽、というような感覚も持っています。そういうことを話した時に、「なにか悪いことでもしたんじゃない?」といわれたことがあります。過去を振り返っても、あまり良いおこないをしていた人間でもなかったので、そうなのかなとも思います。そして、それ以上に、自分自身を「悪」にしていることがわかりました。

子どもは、親や親族や大切な誰かを失った時、または、家庭内が平和ではない時など、自分が何か悪いことをしてしまったからそうなってしまったのではないかと考えてしまいます。私も過去を振り返ってみると、同じように感じていたと思います。生きている罪悪感を常に持っていました。

そうすると、自分の存在価値を低めてしまいますので、それが周りに波動として伝わり、結果、ぞんざいに扱われるようになります。

ぞんざいに扱われるのは、あなた自身がそれを望んでいるからです。

私は、ずっと、周りのぞんざいに扱う人にそうしてしまう原因があると思っていました。雑に扱う癖のようなものがあると思っていました。しかし、それは全くの逆でした。私こそが雑に扱われることを望んでいたのです。

そして、ぞんざいに扱われる理由は、誰かを失ったことや家庭不和だけの問題ではありません。もっと根深い「家の伝承」が関係してきます。もっと過去にさかのぼって、何か家庭にいびつな形があれば、それが原因となって、生きている罪悪感やその罪悪により、ぞんざいに扱われる理由は見つかってきます。家の宗教やトラウマなども理由の一つです。
二元思考(二元論)による宗教脱会後の罪悪感と空虚感
罪悪感は相変わらず持ち続けてはいるけれど・・・

人はすぐに誰かのせいにしてしまいますが、ぜひ、自分がその現実を作り出しているという視点を持って考えて欲しいです。目の前で起きている現実は常に自分発信なので。

そして、自分で自分を大切にして欲しい。私も最近はそう思えるようになりました。からだやこころや衣食住や身の回りで、大切に扱ってあげられるようになりました。二番目ではなく一番に大切にしてもいいんだと思えるようになりました。

周囲を気にかけてしまう性被害者

周囲を気にかけてしまう性被害者

「性暴力被害は、子供の心に深いトラウマを残す。『心配をかけたくない』という子供なりの優しさや気遣いから、大丈夫そうに振る舞っていても、本人は苦しみ続けているケースは多い。」引用元 読売新聞 教員からわいせつ行為、命絶った女子生徒の母「慕う気持ち利用…許せぬ」

被害者の立場なのに、自分が悪いと罪悪感も持ってしまう性被害者の方もいます。私もそうでしたし、この記事の女子生徒さんも、私と同じ感覚だったと思います。

人はつらい出来事が起きて、それが100%被害者の立場でも、人を完全に恨むことはできない。だからその葛藤で苦しむのだと思います。他者を悪にするよりも自分自身を悪にしてしまいます。

そして、子どもが一番に考えていることは、親のことです。親が平和で平穏であるよう願っています。それが崩れるくらいなら、自己犠牲を払ってでも親を守り続けます。

ですから、子どもの表面的な言葉や行動だけではなく、裏に隠れている感情に気づける大人が増えて欲しい。そうしたら、必然と性被害、性暴力は減ってきます。気にかけてもらえている存在、大切にされている存在だと認識できるだけで、それだけで、子どもは自分を傷つけることはしなくなるからです。そうすることで、この国の子どもたちを大事にしていることになり、それは、国を存続させることにもなります。

「生きていてごめんなさい」って思う方へ

「生きていてごめんなさい」って思う方へ

生きている罪悪感を持たれている方は、結構おられるのではないでしょうか。私も時々そういう感情に押しつぶされてしまいます。

しかし、それがどこからそうなっているのか理解できただけで、心が楽になっている自分もいます。

一つの理由は父親の死です。小学2年生に亡くなっているので、その時、初めての人の死に直面しました。何が起きたのか理解できていませんでしたが、少しずつ日が経っていくにつれ、悲しみが強くなりました。「どこに行ったの?」ってよく泣きながら考えていました。

家系図を作っていく内海式精神分析をしてみると、理由は他にもあり、親族の不慮の事故や自殺も生きている罪悪感を持ってしまう理由の一つであり、そして他にも理由はいろいろとあるのだと思います。

宗教の教理からの影響も罪悪感を持つ原因でもあります。宗教の教えが「善」で、人間は不完全な生き物なので「悪」と捉え、その考え方を植え付けてしまいます。幼ければ幼いほど、強く影響されてしまいます。二元思考(二元論)による宗教脱会後の罪悪感と空虚感

見えていない理由は他にも必ずあり、いろいろな理由が複合的に重なり合い、生きている罪悪感の塊になったのだと思います。

この感情はどうにもならないのですが、どこからのものかわかるだけで、思い詰める時間も減ってきました。

人間はみな不完全であり、完全な「善」をおこなうことは不可能であり、何かしらの罪を背負っています。生きているだけでこの地球も汚していますし。

ですから、「生きていてごめんなさい」と思っていても、自分には生きている価値がないと感じていても、それでも生きていて欲しいなと思います。もう自ら苦しめず、自分の感情を優先して欲しい。生きる権利はすべての人にあり、人は本来、生きていくために生まれ出たのだから。