宗教をやめたいと思った人の思考と行動

宗教をやめたいと思った人の思考と行動

25年間エホバの証人として活動してきて、子どもに聖書の教えを押し付けてしまったため、社会人になった時に子どもは家を出ていきました。恋をして、教理がどうしても受け入れられなくなったのです。相手の方にも私たち夫婦は、聖書を学ぶよう押し付けてしまったので、そのことでも嫌になり、突然、目の前からいなくなってしまいました。

宗教をやめたいと思う二世三世の子どもたちは、たくさんおられると思います。しかし、その場からは離れられない子どもたちも多い。それは親が悲しむということと、行く場所がないから。この二つの点が大きいと思います。

私の子どもは、親が悲しむということも受け入れ、でも、自分らしく生きたいと思い、行く場所を確保して、家を出ていったと思います。本当に親として子どもに苦痛な選択をさせてしまいました。

ある宗教二世の子の経験談で、大学に行けなくなるから、嫌々、宗教家庭の実家にいるという話を聞きました。私は、本当に宗教が嫌と思った時には、自分がどうしたいのか、どうしたら自分らしく生きていくことができるのかを考え、選択して欲しいと思います。

自分の意見を押し通して何かを選択することや、生きていくことには責任が伴います。自立した生き方には、自分で考えるということや、責任が伴ってくるのです。そういう覚悟があれば、私の子どものように宗教をやめることもできますし、宗教だけではなく、精神薬の断薬や、病気、あらゆる問題にも対処していけると思います。

実際に子どもが取った選択は、親から見てもすごい決意と行動力だと思いました。そういうことができる人間だと思っていなかったので、尚更、そう感じました。

覚悟を持った人は強いです。当時はお互いにつらい経験でしたが、子どもから学ばさせていただきました。そして、数年後、夫婦二人でエホバの証人をやめる覚悟を持つことができ、親が悲しむことも受け入れ、自分の望む生き方がしたいという思いを一番大事にし、組織から脱退しました。現在、三人とも聖書やエホバの証人の教理に縛られることなく、自由に暮らしています。

教理をすべて信じていないのにやめなかった理由

教理をすべて信じていないのにやめなかった理由

エホバの証人の時は、教理をすべて信じてはいなかったです。本当にハルマゲドンは来るのか、楽園は来るのか、死者は復活するのか、人間は完全な存在として生きていけるのかなど、半信半疑でした。それでも、エホバの証人をやめようとは思いませんでした。

私のような信者は必ずいますし、もしかしたら多くの信者は同じように考えていたかもしれません。

しかし、外側からやめさせようとしても無理です。それは、その宗教をしていたほうが、本人にとって都合がいいからです。

私もエホバの証人の組織に属していた時は利益がありました。都合がいいものがありました。

自分の居場所作りのため
宗教教理により子どもを性被害から守れるため
家庭内が波立たないため
自分自身のアイデンティティを保つため
死者の復活や平和な世界を望んでいたため

他にもいろいろとあったと思います。

ですから、家族や周りの友人などが宗教をやめさせようとしても無理です。よくうつ病の人や病気の人に、食事法や医師を紹介したりとアドバイスされる方がいますが、当人はそんなことは望んではいません。それと宗教の問題も同じです。本人がその状態を不快に思ったり、都合が悪いと感じない限り、宗教をやめることは難しいです。

しかし、信者は確実にはすべてを信じてはいないので、その要素が大きくなった時に変化は訪れるのだと思います。私も実際に、体を汚す血は避けるのに、薬や抗がん剤や社会毒はどうして避けないよう指導しないのかと考えた時に、なにかしら不信感を持ち始めました。宗教をやっている時は、あまり考えてはいませんでした。教えの通りに生きていればそれが神から喜ばれると、ただ、教理だけを受け入れていました。本当に何も考えていなかったのです。

宗教をやめさせたいと思った時、周りの人にできることは何もないのかもしれませんが、信者はすべてを信じているわけではないということや、都合がいいからその場にいることや、やめるきっかけがないとやめれないなど、そういう状態だと認識していたら、何か変化は訪れるのかもしれません。そして、あなた自身も実はその状態が都合がいいと自覚したら、宗教をやっていてくれたほうが都合がいいと認識できたら、その時は、あなた自身も選択するものが変わってくるのだと思います。

エホバの証人とがん患者

エホバの証人とがん患者

エホバの証人の組織にいた時は、病気の方は多かったように思えます。うつ病をはじめ、精神の不安定さ、発達障害、自律神経失調症、皮膚病、婦人科系疾患、難病、そして、がん。

女性特有の病気である、乳がんは何人かいましたので、身近な会衆で目立つのなら、全体ではもっと沢山いたと思います。

では、どうして乳がんが多いのかと考えた時に、聖書の教理が関係してくると思います。

私が学んだエホバの証人が用いる「新世界訳聖書」では、性に関する教えは厳しかったように思えます。(他の聖書や宗派とは比べたことがないので、同じなのか独自の解釈なのかはわかりません。)

そして、その性の教えが厳しかったので、私はこの宗教を求めてしまったと思います。このエホバの証人の組織に居ることは、どこかで安心感を持っていました。誰も性的なことで傷つける人はいないと安心していました。

性に関する教えはどのように厳しかったのか。例えば、結婚関係以外の不義の性関係である淫行は、聖書では禁じられ、将来訪れる「楽園」に入ることはできませんでした。その将来の命が関わるゆえに、多くの信者は「性は悪」ととらえたのかもしれません。私もそういう感覚は持っていました。

「ある人がユダにこう告げた。「あなたの息子の妻タマルは娼婦のようなことをして,しかも妊娠しています」。ユダは言った。「彼女を連れ出して,焼いてしまいなさい」(創 38:24)」
「神は,皆さんが聖なる者となり、性的不道徳を避けることを望んでいます。(テサロニケ第一 4:3)」
「淫行から逃げ去りなさい。…淫行を習わしにする人は自分の体に対して罪をおかしているのです(―コリント第一 6:18)」

そうすると何が起きるかというと、自分自身に出てくる、性に対する欲求を「悪」としてしまうのです。私の考えとしては、幼少から聖書を学んでいる宗教二世三世の若者は、性的な欲求を「悪」としているのだと思います。ですから性に関する「がん」ができてしまうのだと推察できます。そのがんには必ず隠れている精神性があるからです。奥に隠れている、隠しておきたい感情が隠れています。

宗教は教えが絶対なので、どうしても自分自身が「悪」になってしまいます。素直な子どもなら尚更です。純粋に教えを受け取ってしまいます。

ですから、宗教は時として人を支配もできますし、人格形成もされてしまい、本当の自分が「何者」なのかわからなくなるのではないでしょうか。悪い言葉を使えば、ロボット生産のようなものです。聖書の教えをインプットされて、すべて同じ人のように見えていました。同じ言葉を使い、同じ表情を出し、すべての信者が仮面の姿でした。

そして、がん患者は何かを必ず封じて生きています。何かを溜め込んでいます。それが塊になってがんという形になっているのだと思います。

がんは、環境や食からくる社会毒が原因の一つでもありますが、精神も必ず関係していることを知って欲しいです。そして、宗教の教理がとても影響しているということも、もし、このブログに辿り着いた宗教二世三世の子どもたちに伝わればと思います。

「生きていてごめんなさい」って思う方へ

「生きていてごめんなさい」って思う方へ

生きている罪悪感を持たれている方は、結構おられるのではないでしょうか。私も時々そういう感情に押しつぶされてしまいます。

しかし、それがどこからそうなっているのか理解できただけで、心が楽になっている自分もいます。

一つの理由は父親の死です。小学2年生に亡くなっているので、その時、初めての人の死に直面しました。何が起きたのか理解できていませんでしたが、少しずつ日が経っていくにつれ、悲しみが強くなりました。「どこに行ったの?」ってよく泣きながら考えていました。

家系図を作っていく内海式精神分析をしてみると、理由は他にもあり、親族の不慮の事故や自殺も生きている罪悪感を持ってしまう理由の一つであり、そして他にも理由はいろいろとあるのだと思います。

宗教の教理からの影響も罪悪感を持つ原因でもあります。宗教の教えが「善」で、人間は不完全な生き物なので「悪」と捉え、その考え方を植え付けてしまいます。幼ければ幼いほど、強く影響されてしまいます。二元思考(二元論)による宗教脱会後の罪悪感と空虚感

見えていない理由は他にも必ずあり、いろいろな理由が複合的に重なり合い、生きている罪悪感の塊になったのだと思います。

この感情はどうにもならないのですが、どこからのものかわかるだけで、思い詰める時間も減ってきました。

人間はみな不完全であり、完全な「善」をおこなうことは不可能であり、何かしらの罪を背負っています。生きているだけでこの地球も汚していますし。

ですから、「生きていてごめんなさい」と思っていても、自分には生きている価値がないと感じていても、それでも生きていて欲しいなと思います。もう自ら苦しめず、自分の感情を優先して欲しい。生きる権利はすべての人にあり、人は本来、生きていくために生まれ出たのだから。