0歳から46歳まで宗教が常につきまとっていました。私にとっての宗教は「足かせ」のようでした。自ら望んで学んではいないし、いつも誰かを喜ばすための宗教でした。
宗教とは、
足かせ、決まりやルールで息苦しい、難しい、自分よりも他者を喜ばすツールなど、いろいろと解釈できます。
一般的な宗教の定義はこのようになっています。
宗教とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。
なお広辞苑では、「神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」、としている。
宗教(引用元 ウィキペディア)
宗教とは、神や仏といった超自然的な存在に対しての信仰や、それにかかわる営みを指す言葉です。神仏の教えを信じることで、安らぎを得たいとする心の働きのことです。
引用元 大人のためのbetterlife マガジン『enpark』
宗教にはもううんざりしていたのに、こうしてブログ記事として「宗教」を綴ることにも、必ず理由があります。きっと死ぬまで宗教に関係する事柄に携わるのだと思います。
どうして、嫌いだった宗教が常に隣にあるのか、自分自身の解釈としては、一つは「罰」なのかなと思います。または、人間の力や自然の力を超えた、神もしくは超越的なものを求めているのかもしれません。正しさの世界で生きたいために。そして、最近は、生きる「力」にもなっているのではないかと、そう感じてもいます。
自分自身の命の灯火は、幼い頃から弱かったのかもしれません。無気力になることは学生の頃から時々ありました。少し重い荷を背負って生きていたほうが「生きている」という実感が持てるのだと思います。
46年間、私にとっての宗教は受け身でしたが、今年50歳になり、人生後半は、宗教に能動的でありたいと思う自分もいます。宗教は個人的に学ぶのであれば、楽しいジャンルなのかもしれませんし、常に精神のことなど考えていることは、生きていく上では、よいことのように思えます。人は考えることをやめてしまった時が「死」なのですから。